大先祖は、長江漁労稲作屯田兵
日本人の祖先は、北から来た狩猟民族の縄文人、そこに黄河流域の騎馬民族の漢民族に追われた、東の海に新天地を求めた長江流域の呉越人、船に乗って日本の地にたどり着き、湊を見つけ魚を食べて入江の奥に水田を開拓して、稲作文化を創りあげた屯田兵たち。
兵ですから男子のみ、条里田を作る規律は屯田兵特有のもので、北海道に例を見ることができますように、各地にある四角の田んぼは屯田によってできた田んぼ、堰ができ、田んぼができると屯田兵は農民となり、現地の縄文人を妻にして飛躍的な発展を遂げるのです。
湊から始まった屯田は、その企画者つまり呉越の隊長に差し出す租(稲束をまな板に載せるの字が租であり米の収穫を揃えて出すの意味。)により、その上流の開拓好適地が、その子等により屯田されていった過程が、今も残っている集落の中の疎水に沿って四角に区画されて居る田んぼ。
疎水がとぎれるところにある等高線に沿っている棚田は、それ以後に屯田技術を身に付けた農民が、出来る方法で開墾した新開田で、検地までの間は租税の掛からない田んぼの名残。
その盟主が天皇家であり、年貢の地租は天皇に差し出す理由は、元兵士だったからであり、租庸調のありようが屯田制の名残と考えている。以後跋扈した豪族であっても租税権を手に出来ず、代理徴収権が二千年続いた理由であり、地租改正が出来たのも王政復古故のことが、想像できる。
このことが、自然の田んぼをつくる上で、重要なことになる事を筆者は、ふる里の田んぼのありようを見て知ったのです。
古事記に依れば、祖先の移動経緯は明らかで、この度遠き歴史の中にあった弟子が、高天原に赴くに当たり、その歴史の偶然を知り餞の意味も込めて、ここに大筋を書き記そうと思い立ちました。
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