無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

木曜日, 8月 04, 2011

眞田幸村軍団 赤備えをジャムラベルに

上田市房山にある 「風林山 金昌寺」

 はるか昔400年以上も前のこと、我が家の敷地は、「風麟山 琴松寺」でありました。
眞田幸村の父、眞田昌幸が築城の際に、当地より城下へ寺を移したひとつであります。
琴松寺の松を昌幸から1字とって昌に、琴を金に替えて、金昌寺として建立されたのだそうです。

 その時に、当地に住んでいた皆さまは、こぞって城下に移り、空き家となった集落に、我が先祖が移り住んだのだそうです。
 で、当地の地名大字は本入村、上田市内には、常田の隣に常入と踏入がありますが、その起源は未調査です。
 海野町に対し東部町に本海野、原町に対し真田町に本原があり、新田には鎌原があり、群馬県嬬恋の鎌原村からの移住が窺えます。そんなんで、入村に本がついて江戸時代は本入村だったのではと、私は考えています。

 小字は小寺尾、多分「古寺」がなまってコデロ(古老はそう呼びます)からコデラオとなり、小寺尾となったのでしょう。

 それらの故事が、歴史から消えているのですが、もしかして、先祖さん達は、幸村と一緒に大阪城で戦って、お亡くなりになってしまわれた故かも知れません。
 で、そんな故事を記念して、「眞田赤備え」の旗印である「六文銭の赤旗」をジャムのラベルにデザインしてみました。

 どうか宜しくお願い致します。
 
 当家は、集落の中心にあり、その寺の墓裏に位置しています。その寺は江戸時代までは存在していたようで、家の前にあった昔の集会所は、お堂を改造したもので、その南に集めてある墓には、江戸期の和尚の墓が数基存在していたり、江戸の年号の入った踊り念仏供養塔が建てられています。

 今日金昌寺のご住職を訪ねてみましたが、お留守で奥方様にお話しをして、盆でも明けたら再びお訪ねしてみようと思っております。