主を外した歴史の真実
歴史の中で、「誰が何した。」の誰?を外して観察すると、記録だけが残っているので、真実に一歩近づけます。
イチバンの真実は、今の地形で、これはごまかしようにありません。
条理の田んぼと等高線に沿って開拓された田んぼがあると、条理のほうが先に出来ています。
どちらも上流河川から堰を引いてくるところから始めなければ、出来ないことはお分かりだと思います。
条理の田んぼの特徴は、必ずや堰の取り入れは岩盤の河床から引いていることです。
つまり、この地域でイチバン安定して取水できる所が、地域最初の取水口になり、最初に開拓された田んぼであることが解ります。
最初の開拓ですので、組織に拠る入植でないと不可能で、所謂、開拓専門の軍が進駐してきてやらないと出来ません。
上田の地では、御所・中之条・下之条がそれに当たり、その堰の頭首工は小牧の六ヶ村堰と同じ位置、昔も今も変わりません。
同じく、古里側にも条理は残っていますが、道路の区画は出来ていますが、田んぼは条理になっていないのと、神川からの取水が古代には難しい場所を選んでいるので、時代が遡ってのそれではないかと思います。
塩川にも綺麗な条理田がありました。この取水も藤原田からの河川の岩盤の場所から引いています。昔は沢山の水が流れていたのでしょうか。
あまり大きい集落は必要なく、できる範囲での開拓で充分なのです。その後、居着いた農民が自力だの集落あげて開いた田んぼが、等高線に沿った棚田になっていったのです。
そして、条理の田んぼが完成すると、その子孫らに拠って更に上流に、洪積平と岩盤の取水口を探して行ったのです。
武石の市ノ瀬にある取水口は、市ノ瀬が武石イチバン美しい渓谷になっていて、長瀞とはいかないまでも、岩の谷間が開ける所にあります。
岩盤からの取水の特徴は、通常の取水口はしばらく川に沿って土手などで標高を稼ぐのですが、川から一気に平野部に導いていることです。
それに、悩んだ形跡はありません。しかも千年以上変化なかったことも頷けます。
この下に下武石の条理の田んぼが有ったのでしょう。今は何処も構造改善されていて、そのことが見えないのが残念です。
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