686年、科野遷都は成らなかったが、天武天皇は確かに科野の須波の海戸にその場所を定めたのだ。
長いこと御所の区割りが謎だった。
そもそもそれが上田市であることすら語られていなかった。
確かに、科野大宮社の石碑には、そう書かれているが、真実の裏付けに確たるものが欠けていたのだ。
筆者はついにその手がかりを見つけたのである。
科野大宮社と科野国分寺の一致の現場を捉えたのだ。
科野大宮社の左に広大な条理田がある。
開田は江戸時代になってからと伝えられている。
その条理が、旧信濃国分寺の発掘により明確になった場所・方位ともに、綺麗に一致するのである。
また、その条理は科野大宮社を西の発端にして、刻まれている。
科野大宮社と科野国分寺の一致点が見えなくて悩んでいたが、ついに発見したのである。
真田氏が上田の町を整えたのは1583年のこと、科野大宮社の西側に街を作ったことが、現在の街路の形状からも読み取れる。
それ故に東側には、それ以前に図のように条理が存在していたことを意味している。
なぜなら、条理田が整えられたのは、伊勢山の裏の神川からの疎水が引かれた時で、記録によれば1679年江戸時代前期のことという。
信濃国分寺は741年に建てられたというが、その前すでに尼寺の位置には異なった建物があったことが、近年吉村八州男氏の研究により明らかにされている。
僧寺に対して尼寺の礎石は、九州王朝の尺を用いて築かれていて、それ以前の建立であるのだ。
そして九三九年に平将門によって焼かれ、その後は北側の現在の場所に移されたのだ。
参道は、本来なら僧寺に正対するべきところ、旧寺の尼寺側から伸びている。
将門以前から、参道に相当する道路形があったことを意味している。
旧信濃国分寺の存在が明らかになったのは、1970年頃のことである。
江戸時代には明らかになっていなかったはずであり、開田の条理を切る時に信濃国分寺の礎石の向きに合わせることは不可能である。
科野大宮から東に伸びている道路は二本、一本は北国街道で、千曲川に沿っている。
もう一つが祢津街道であるが、何故か一直線に東に向かっている道路が残っていて、神川の崖を渡る位置と一致するので、この道路は開削以前から直線路が有ったことを示している。
そしてその大路は、小泉大日堂から科野大宮社を結ぶ線上に、ピタリと一致しているのである。
北に向かう道路も直線に伸びていて、この北の道を結界であるかのごとく東西で街区が明確に変わっている。
西は上田城下が開かれた時に区切りされたものだが、その発展は東にも向かったはずだが、東は恐ろしいほど綺麗な条理なのだ。
街道が開いたのは戦国時代、科野大宮の東にまだ条理の田んぼはなく、直線である道理がない。
また、この地には大きな河岸段丘があり、上と下の村も違い生活の関連がなく、疎水は共同で引いたことが認められるが、条理の区画線を一致させる理由が見当たらない。
答えはただ一つ、この地が田んぼになる前から、科野大宮から信濃国分寺の右にある旧寺(尼寺)に併せた条理の大規模な道路工事が成されていて、道形が残っていたと考える。
ここに、科野の副都の大路が蘇ったのだ。
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