無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

水曜日, 5月 03, 2017

律令時代の御用馬のルート

 律令時代の御用牧の騎馬の搬送ルートは、現在残っている地名から推測するのに以下のようだったと思われます。(通説に一部変更を加えました。)
 佐久(柵)望月の御用牧場→御馬寄(御代田)→小牧(御牧?)→諏訪形(国司須波氏のお屋形)→須川の尾山(御山の牧?)→御嶽堂→腰越(海部の郷)深山→鳥屋(鳥羽・鳥矢)(餘部の郷)→武石→築地原→大布施(巣栗(村主?))→稜線の道→武石峠→美ヶ原牧場にて高所トレーニング→駒越(里山辺)→厩所(松本)→木曽街道→奈良の都
 東山道は武石峠より北の保福寺峠ルートであり、人々の通行する公道を避けて、裏街道を利用していた理由とは、その存在自体が軍事機密だったからだと考えています。

 第一次騎馬隊が「科野國州羽之海」を目指した理由は、そこが千曲川唯一の下流に広がる洪積平への堰の取水口として、最適な場所だったからです。
 当時、貨幣は必要なく、お米が兵隊の給与としての最高の位置づけで、仕事が貰えて食い扶持があり、将来に希望が持てる職業として、騎馬兵の育成があります。
 天武天皇13年の在位の中で、騎馬兵の育成(士官学校)を挙げていますが、実際にどうであったのかを、妻である持統天皇は伏せています。突然の夫の死亡で騎馬兵の軍事力の詳細は軍事機密にする必要が生じたのだと思います。

 天武天皇が672年の壬申の乱で政権を取得したのを助けたのは、科野國(の須波)の兵であることが記録されています。
 685年天武13年、科野國須波の郷(常田の荘)に遷都を計画。
 691年持統天皇5年水害の記録ありし時、科野國須波の神(上田市諏訪形)、水内の神(豊長野市野町)招聘の記録が日本書紀(720年編纂)に、大河を制した豪族である経歴が必要。諏訪湖にその豪族も不在なら河川もないが、豊野、諏訪形共に実績あり。
712年古事記編纂時に、科野國州羽之海に建御名方神(阿蘇嶽南方に居た騎馬民族の頭目)を追い詰める記述ありて、百済人を州羽氏(須波氏)と命名して仲間に入れた形跡あるが、日本書紀では触れていない。
 この理由として、当初は渡来人の扱いだったが、須波氏の貢献大にて軍政が成功して敵方ではなく、重要な味方になった事件が必要。
 その事件とは、科野の日本最大の武器商人である守矢氏と建御名方神が戦い和解している。即ち、矢じりの武器商→弓矢の武器商に、高原での騎馬兵の育成事業が加わり、秦國の汗血馬の産地が蒙古高原である事実も知って居て、高所トレーニングを積んだ科野の騎馬兵という、イノベーションが起きた。
 
 時代は流れて938年平将門の乱にて、須波の兵他田(おさだ)ノ真樹、参戦して勝利する。(他田の姓は、中国語で田の人という意味、倭人は戦わないコメつくり人とう意味で、稲作を伝えたのは倭人で田の専門職だったが、戦も覚えたよう)
 1180年木曽義仲、諏訪形より10kmほど南の御岳堂の原にて挙兵するも、進軍まで1年駐留する。(駒王として、塩田平付近、手塚・生島足島神社・諏訪形の皇神宮などに足跡多し、幼年時代から騎馬兵の訓練基地であった形跡大)
 1184年義仲敗死するも、巴御前と手塚別当逃散、須川に250名の兵士が戻ってきた伝えあり)現字名で「奥別当」なる不自然な小字に隠れ里の形跡ありて、井戸跡、宮跡ありて、科野大宮社の神殿の正面に存する不思議な位置にある。
 1186年、常田の荘の領主、八条院璋子内親王、諏訪形の山上に大鳥居を建てた記述が、常田の科野大宮社の石碑にあり。生島足島神社の夏至の日昇線と科野大宮社の正面線との交点の山の上にそれがあると、奥別当を守るように存在する。
 鳥羽天皇の娘の璋子内親王は、猶子(戸籍上の息子)の以仁王に平氏討伐令を与えて挙兵させた人物で、義仲挙兵に領地常田の荘に関わっていて、岡谷の荘も八条院領。
 巴と別当に子ができた祝が大鳥居だと辻褄が合い、璋子50歳の時、75歳で没しているのですが、その子が長じて八条院領岡谷に赴き諏訪氏を名乗れば、璋子内親王の夢も、義仲の夢も、巴の思いも、660年頃から居たはずの須波氏が、鎌倉時代に突然諏訪氏として諏訪神社に流鏑馬の名手として現れても、全ての辻褄が合うのです。

 報酬としてのお米の生産は、天皇家一族の直属の他田氏が勤めれば、作ったコメを代金として、須波氏に払えば、毎年騎馬兵を都に送ることが出来、古代軍国資本主義が貼り立つ。 
 科野國が騎馬兵の練兵場であり、馬の育成・武器の製造(金刺氏)・騎馬兵の鍛錬(手塚氏)・武将としての教育と、人馬の高所トレーニングを積む仕組みなどが、山家氏である真田氏に伝わり、美ヶ原・霧ヶ峰・八ヶ岳を中心に伊那・佐久と信濃の高山の特性を活かした軍事教練場は、軍国主義が終わる徳川時代初期まで、真田赤備えなどと恐れられた理由が、「騎馬軍団システムの販売」にあったとしたら、全てがつながっていくのです。