植物と窒素肥料の関係(その4)
植物も動物も、ある基材は使い回しであるらしい。
この使い回しの概念が、大きくは輪廻転生であり、狭義では身土不二というような言葉になって、古人は瞑想の中で繰り広げられてのであろう。
それにしても、只の瞑想ではなく、実際に薬草を探したり、田畑に向かっての体験の上の瞑想でに、優れたものが今日まで語り継がれている、事は想像に難くない。
事実、我が家のご先祖にも、全てのきのこを食べて試し、お亡くなりになった御仁が伝えられている。父は盆に名前も教えてくれたのだが、当時のワタシはボンクラだったので、スッカリ忘れてしまった。
今頃になって先祖を敬おうにも、既に盆暗である。
さて、ワタシは植物と動物の最大の違いは、脳みその小脳の存在だと考えています。
動物にはあって植物には不要な理由。セルロースからタンパク質の合成のコントロールではないか。
植物ができるのは再生、動物は内臓において、創生を行っている。その為に些細にコントロールする必要があり、脳の存在があると考えています。
牛など草を食べて肉を創ってる動物と、虎やネコのように肉を主食にしている動物では、脳の使い道が違う。
牛は、反芻させて消化せるように胃袋がたくさんあったりして、生きることに精一杯に見えるが、トラなどは肉から肉を作るので、脳みそはハンティングや早く走る方にも脳が使えるので、俊敏の割には頭が小さい。
それだけで決めつける訳にはいかないかも知れないが、セルロースからタンパク質を創りだすにはかなり高度なテクニックが必要です。
もし、草がそういう難易度の高いシグサをするとすれば、種の成分が消化酵素だけでブドウ糖に変わり得るデンプンや油脂であることが不自然であり、光合成の創成物の中が炭水化物だけなのは不自然になる。
さて、問題の窒素だが、このネットでも窒素固定なる言葉で、画像を検索してみるとわかるが、期待している植物が窒素からタンパク質を作り出してる画像は見当たらない。
植物には、むずかしい仕草なのではないだろうか。
若し、植物ができ得るとすれば、種子の一部に硝酸やアンモニアでできた種がなければならないが、その種を食べれば動物は死ぬので、あったとしても動物に運んでもらうという、共生の歴史の中で淘汰されて、共生可能な種が地球を覆い尽くしたと考えるべきであろう。
そのようにして、瞑想の中では、タンパク質など高級な基材は、温度と水分の寡多によって活性と休眠なる性質を得て「使い回しがされている」と考えています。
この使い回しが理解できないと、自然農は難しいのではないかと、ワタシは考えています。
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