国府の時系列考察(その2)
騎馬隊の育成、天皇家が科野に来た主な理由。
そもそも、天皇家とは越の国が北の騎馬民族に襲われて、東の海に逃れた倭の民(コメを作る戦わないヒトに意味)が日本にたどり着き、コレまた戦わなかった縄文人とうまく交わって、弥生文化を花咲かせて、屯田兵による岩盤から引く水路の開設と条理の田んぼに依って、日本全国に稲作を伝えていくのです。
条理が完成したら屯田兵を駐留させて、農民として租庸調の年貢を課し、租は天皇家に、庸は息子を次なる屯田兵に、調はその食料を親に出させる。雇用ではなく兵役としたところに、古代資本主義の素晴らしさがある。天皇家が永久に栄える礎がここにあった。
しかし、朝鮮半島から騎馬民族が海を渡って戦(いくさ)を伝えてきて、天皇家に取って代わる野党が育つ気配を察し、越の時の轍を踏まない決意から、天皇家が騎馬隊を持つことにより、優位性を保つべく、秘密裏に騎馬の育成を目論んで、シナノに目をつけたのだろう。
六ヶ村堰を開き、上の条中之条下之条の条理を完成させたスサノウ。主は須波氏。
新田の長を「他田氏」。(おさだ)
馬の飼い手、乗り手を「手使い」その民を「手塚氏」。
ヤジリに代わる武器の弓矢槍を鉄で創る「金刺氏」。
全て諏訪氏の一族の起源に合致する。
手塚氏は、美ヶ原を制する「餘部氏」の力を借りて、騎馬の調教強化を美ヶ原の台上で行い、その存在を伏せると同時に、現諏訪方面にも進出して、信州一帯を牧として、佐久や伊那や木曽に進出いくのです。
義仲も木曽から騎馬の訓練に、手塚氏を頼ってきて、今井兼平や手塚太郎光盛と知り合って、信頼おける仲間を得て上田での挙兵に及ぶのでした。
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