無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 7月 24, 2016

国府の時系列考察(その2)

騎馬隊の育成、天皇家が科野に来た主な理由。

そもそも、天皇家とは越の国が北の騎馬民族に襲われて、東の海に逃れた倭の民(コメを作る戦わないヒトに意味)が日本にたどり着き、コレまた戦わなかった縄文人とうまく交わって、弥生文化を花咲かせて、屯田兵による岩盤から引く水路の開設と条理の田んぼに依って、日本全国に稲作を伝えていくのです。

条理が完成したら屯田兵を駐留させて、農民として租庸調の年貢を課し、租は天皇家に、庸は息子を次なる屯田兵に、調はその食料を親に出させる。雇用ではなく兵役としたところに、古代資本主義の素晴らしさがある。天皇家が永久に栄える礎がここにあった。

しかし、朝鮮半島から騎馬民族が海を渡って戦(いくさ)を伝えてきて、天皇家に取って代わる野党が育つ気配を察し、越の時の轍を踏まない決意から、天皇家が騎馬隊を持つことにより、優位性を保つべく、秘密裏に騎馬の育成を目論んで、シナノに目をつけたのだろう。

六ヶ村堰を開き、上の条中之条下之条の条理を完成させたスサノウ。主は須波氏。

新田の長を「他田氏」。(おさだ)
馬の飼い手、乗り手を「手使い」その民を「手塚氏」。
ヤジリに代わる武器の弓矢槍を鉄で創る「金刺氏」。
全て諏訪氏の一族の起源に合致する。

手塚氏は、美ヶ原を制する「餘部氏」の力を借りて、騎馬の調教強化を美ヶ原の台上で行い、その存在を伏せると同時に、現諏訪方面にも進出して、信州一帯を牧として、佐久や伊那や木曽に進出いくのです。

義仲も木曽から騎馬の訓練に、手塚氏を頼ってきて、今井兼平や手塚太郎光盛と知り合って、信頼おける仲間を得て上田での挙兵に及ぶのでした。