シナノの歴史探訪。シナノを早急に信濃と考えてはいけません。
シナノは始め科野、「科野大宮社」科野を掲げて存在するお宮は、上田にしかない。
科野大宮の社宮殿は、町の区画に逆らってひとり南東を向いています。その先を測量すると、小牧の山裾に「大神宮跡宮」の参道と平坦な宮跡があります。
古事記の科野国の州羽の海が小牧地積だとすると、そこに留まった建御名方神の最初の住まいがこの地。
タケミナカタは、『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った[2]。建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして投げ飛ばした。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという[2]。以上諏訪神社の由来よりコピー
平安時代に諏訪氏を名乗る豪族は、小県の須波氏のみ
日本では
古墳時代に古墳の副葬品として
馬具が見られることからこの頃に
乗馬文化が導入され、軍事的利用される馬の育成は日本列島の各地へ広まり、特に
東国において分布が拡大する。
ヤマト王権では
推古朝の頃には馬を管理する官職が存在しており、畿内の有力豪族により馬産が行われていた。地方においても在地首長による乗用馬の生産が行われ、
律令制下には中央への貢馬が行われるようになった。
勅旨牧は、
奈良時代後期に牧の管理を請け負ってきた
兵部省から分離独立する形で、新たに設定されるようになったと考えられている。この時期には
令制国やそこに設置された
牧(
御厩)からの
馬の貢馬が滞りがちとなり、更に
太政官において軍権を握った最高責任者の
藤原仲麻呂が乱を起こす(
恵美押勝の乱)など、天皇を守るための直轄の軍備の必要性が唱えられた時期であった。このために当初は天皇直属の厩を管理していた内厩寮の下に置かれていた。
これらの牧は各
令制国毎に
牧監(もくげん)が設置され(ただし、武蔵のみは各牧単位で別当が設置)、
在庁官人が中央官庁より一定の任期を持って任命されて馬寮及び
兵部省によって勤怠状況が監督されていたと考えられている。
毎年8月には勅旨牧から中央に貢馬牽進の儀式である
駒牽が行われ、毎年240疋(甲斐60疋・信濃80疋・上野50疋・武蔵50疋、なお武蔵2牧増加後は60疋が追加されて110疋となり、毎年総計300頭となる)が
朝廷に献上されて、
平安京周辺に馬寮が設定した「
飼養牧(しようまき)」に預けられて公務の必要に応じて利用された他、
公卿や
近衛府などに下賜される場合もあった。
天慶の乱などによる軍事的緊張が高まった
10世紀前半に一番の充実が図られたと言われているが、その後衰微した。ただし、その後も馬寮の
荘園や牧場として
鎌倉期まで残された他、牧監や別当を務めた在庁官人の中には
武士として成長する者もあり、信濃御牧の牧監とも伝えられる
滋野氏末流には信濃小領主から近世大名化した
真田氏がいる。また信濃十六牧の筆頭とされる「望月の牧」を支配した
望月氏の支流は、飼養牧のあった甲賀の地で
甲賀五十三家(
甲賀流忍者)筆頭の近江望月氏となる。
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