無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 7月 24, 2016

国府の時系列考察(その1)

シナノは、2万年以上前から武器の供給基地だった。星糞峠(長和町鷹山)すなわち霧ヶ峰である。
その邑は鉄が普及されるまで武器庫だったことがうかがわれるので、弥生時代に入り条理の田んぼが作られた頃は古代資本主義、すなわち兵隊が田んぼを造成してそこに入植させ、年貢を徴収するする仕組みによって、郷氏が形成されたとすると、鷹山のそれは記録によると餘部氏。

場所は武石村余里集落、当時は峠や山道のほうが便利だったので、和田の山道を上田側に抜けるには、余里峠道が直線で便利。

鎌倉時代に武石に地頭が城を構えたのも、餘部氏の勢力が保たれていた証。

ヤマトタケルが東方を旅しているが、武石に寄っている記録がある。

そこで見聞きした地形などにより、上田に武器庫を作る案を立て、弟をここに派遣した。素戔嗚尊である。

州羽の海すなわち、科野国分寺の前に広がる千曲川のダム湖。新幹線の橋脚、六ヶ村堰のダム湖の下流100mほどは、礫岩の層の露出帯で、千曲川に堤防のない古代は、この礫岩層が堤防の高さ位あって、小牧から国分まで層をなしていて、その上流は海になっていた。

諏訪湖は火口なので、礫岩が流れに侵食されて通過できないような場所はできない。
小牧のソレが、まさに州羽の海である。

古事記は追い詰めたことになっているが、それはカモフラージュで、東方に騎馬軍の養成所を創ることが目的だったと考えています。

小牧は尾野山も含めて御牧(おまき)。古代には全て原生林で、原野は氾濫原しか無かったはず。
山頂付近に火を掛けると上だけ燃え、その材木を木立に結わえれば牧場。

小牧山に登れば、千曲川のせき止め湖から疎水を引いて、下之条まで米の里が作れることを、弟に教えられる。

条理の開拓兵には、千曲川の魚、不足の食料は都から古安曽に運ぶ支援が必要。

安曽は阿蘇、庵蘇、庵噌。コメと味噌とお酒を三蘇。
醸造に適した水のでた所が泉で御泉、小泉大日堂はお酒の醸造所。
参道の向かう先は、古安曽神社。
はじめに安曽に住んで、コメと味噌をつくり、酒の適地を見つけて小泉に、大日さまは酒の神様。兄の応援の証ヤマトタケルを祀る、小泉大日堂。


さて、疎水を引いて最初の住まいが、小牧の山の手に旧大神宮跡地。
はじめにスサノウ(建五百建命)が住んだ地。疎水を見守るようにひっそりと佇む場所にある。

その後国府に移り、御屋敷は諏訪形字「雲雀」隣に池がほしいと思ったら、そこは字「池田」、その前が国府で字「久保田」その前が字「広道」国府の参道で、その前が東山道の曲がり角。東山道を直進して参道を通り国府に、地元の者は迂回して東へが理解できる。

お屋敷の日参のお参りは、荒神宮すなわち皇神宮、新しい科野大宮社は、旧宮からお屋敷、90度曲がって旧宮から60度の交点に、新宮科野大宮を創る。

古事記にはスサノウが州羽と名乗るとある。
平安時代には「須波」がこの地方の氏、須波のお館=諏訪形。
諏訪形から冬至の日没の線を追って、まず須川の山に登る。
翌日の日没の線上に生島足島神社を造る。

生島足島神社と小泉大日堂と科野大宮社が正三角形になる位置に生島足島神社をつくったのです。

ちなみに生島様から冬至の夕日の方角に手塚の八幡宮、夏至の朝日の方角に手塚別当と巴が住んだ名残の地名、諏訪形字「奥別当」がある。
木曾殿の話は後日。

当時の都に馬を運んでも、今の戦闘機。パイロットと整備士が必要。騎手と馬子を養成する仕組みが美ヶ原。ここはもともと兵器庫なので、軍馬の養成、騎手の養成に餘部の手を借りた。

ミススカル信濃のみすずとは、箕の竹のこと、古代の鎧の材料になる。ミスズは武石の奥山に自生しています。

武石の我が家から上は、築地(駒の集めた処)大布施(これから峠に向かう最後の宿)巣栗(スグリ=村長)があって、鍛冶横沢もあり。
東山道の馬の峠道だった。松本側に厩なる地名もある。

そこを上り、美ヶ原の有り様もまた、古代の牧場と思わねば、平原になっている意味が不明。原生林が突然開けて原になっているので、火を掛けて焼いてそうした跡であり、黒曜のヤジリ産業がハイテクの馬の育成に衣替えをさせて、既存の勢力との平衡を保った。それが餘部氏。

2000mでの調教は功を奏して、科野の騎馬兵は屈強だったことが伺え、その後の佐久の望月や御牧に発展したのではないかと考えています。