千葉三郎武石胤盛
「手塚光盛の兄、岡谷の諏訪盛澄は義仲と一緒に戦ったが、流鏑馬の名手として、鎌倉幕府の御家人として許される。」記述があるが、多分(仮説)騎馬兵の供給(馬と騎手はセット)基地が、美ヶ原を本拠地とする守矢氏と須波氏だった。
幕府としても、騎馬兵の供給は一朝一夕にならず、痛し痒しのところがあり、やむなく許したのでしょう。
そこで、西側の武器庫である武石に、千葉家の三郎胤盛を地頭として送り込み、楔を打ったのでしょう。
一代限りの赴任になったことと、全国に諏訪神社が祀られていることから、推測するに、
騎馬兵の供給が鎌倉幕府と合意ができ、全国に向けて科野の騎馬隊が売られていったのでしょう。
流鏑馬などの技術を磨いて、各地に赴いた軍人は、任地にて指南役や名将になり、また、その地において若者を諏訪(塩田の須波の郷)に送って鍛錬していたことでしょう。
諏訪神社を媒として、武将の育成ができた藩には、戦の神として諏訪社が祀られているのだと思います。
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