天皇家が開拓の指導者であり、順次開拓をしていく手順、租庸調の仕組みを創ったことにより、租と調の一部が京都に運ばれて行く意味がわかります。
征夷大将軍は、税の代理徴収権を与えられたもので、其の部下の名は権兵衛が良いでしょう。その後でも何故、覇権を競った豪族が京都を目指したのかと考えると、年貢の代理徴収権を競ったに過ぎず、田んぼの現場での農民は国家公務員であることを、誰よりも自覚していたのでしょう。
「天皇家に持っていくのであれば、新たな年貢の徴収者として認める。さもなければ出さない。」それが兵衛門たる所以です。
武石の山奥の私事ですが、当家は千年前にこの地に越してきた落人で、紋は笹竜胆、一族は「カクカクシカジカ」との伝えを信じています。農民にとって千年は、ちょっと前なのだと気づきました。
何故、こんなことを語るのか?深水冬期湛水栽培が日本の稲作を津津浦々まで広げた技法だからです。
タワケ、ロクデナシの言葉の意味。ロクとは陸と書いて平らという意味で、農家の言葉では、田んぼの水平が取れていないことを不陸(ふろく)と言います。「ロクでなし」とは、田んぼが平らでないから米がたくさん穫れない農家のこと、を差します。
平らでないとどうなるのか? 深水10センチ以上になりますとヒエは生えてきません。 種が水没した状態で発芽をしますと、根は水を求めるのが主たる仕事ですので、水中にある場合には根は伸びずに痕跡のみ、芽が先に伸び上がります。芽が水中から伸び上がり空気に触れると、水が蒸発しますので初めて根を伸ばすようになります。
水位が7センチを超えると、葉は比重が軽いので浮き上がろうとして、土の粘度に拠って浮力と戦い、10センチですと浮力が勝って浮き上がってしまいます。
そこで、深水では小さな種の雑草は淘汰されて、大きな種だけが生き残って育つというわけで、この原理が誰でも難しくなく米つくりを成功させた鍵だと気づきました。
YouTubeで「昔の農業」を見てください。 映像は時代が進んだ明治の復元ですがたいへん参考になります。
そこでは田植えではなく、種を直接田んぼに蒔いています。
弥生時代の初期の稲つくりでは、秋の稔りでは湛水のままにしておき、田下駄を履いて稔ったモミだけを収穫したのではないか。ヒエを一番先に収穫するとこれも食料にすることが出来ます。田下駄を履く理由がそれ以外に考えられません。
神官が五穀豊穣を願う時、粟稗米麦豆あるいは蕎となっていて、陸稲の粟(アワ)は当然ですが、稗(ヒエ)の豊穣を願う意味が秋の湛水にあることに気づきました。それにしても、稗は文字を見ても可哀想になるくらい今も昔も好かれていなかったのです。
コメは分げつに従って順次稔ります。それに任せて田に入り稔った順に摘み取っていけば、温暖な気候の低標高地では雪が降るまで収穫ができたことでしょう。そして冬も水を張っておくと、春になって水温が上がれば、秋に落ちた最後のモミが発芽して、深水により大きな粒のイネだけが選ばれて着根し、伸び上がり稔りを向かえることに気づいたのです。
田んぼの水位を全体が浅水にして作りますと、ヒエや雑草は田んぼ全面に生えてしまい、稗田となってイネは育たなくなります。深く水を張って作ると、深いところでは草が生えないのでイネが豊作になり、田んぼに凸凹があると、丘になったところではヒエが生えて、そこではイネが育たないので、収穫が減ることになります。
そこで、田んぼを水平にしようという工夫がされて、不陸の田んぼを持つ者をロクデナシと呼んで、駄農であると区別したわけです。この言葉が古くからあるとすれば、いにしえの田では深水栽培なのです。
「昔の農業」を見ると、近代では耕起もしていますが、そこで使われている備中なる改良鍬が発売されたのは、江戸時代末期です。
また、牛や馬が引く鋤に至っては、当地にニプロのブランドで有名な松山スキがありますが、松山源造が会社を起こしたのは明治の中期ですので、耕さない田んぼの深水が品種改良にも寄与すること等から、やはりいにしえでは不耕起だったと考えています。
津津浦々の津津とは興味津々で使われる「水湧きいづる処」です。すなわち条里制の田んぼを意味します。そして、日本の最初の法律と言われる律令制度、その主たるものに班田収受、租庸調と戸籍制度と、開田に係る諸法が定められています。傭については後年に減賦されていますので、当初は開田の傭に駆り出されていたとすれば、得心がいきます。
で、律とは津を行う意味にとれませんか。開田を行う行政法が最初の律の令としての律令であり、後日に刑法も掛かって法律となったのです。
初めの国家建設の時期には、賦課と言うよりは資本投資を国家が行い、それに従事する民は国家公務員、大蔵省造幣局技師であり国家建設局国防委員という位置づけが、越から落ちてきた倭の国家を急速に伸ばせた要因だと思います。
「蘇」とは、浦々に魚が跳ね津津にイネが稔る国土を再び持った意味で、越の国家が倭に蘇ったのです。
冬期湛水深水管理こそが、律令時代の米つくりの基本形であったはずで、この農法は、日本古来を形作る際に符合する農法であり、決して新しくない農法で、自然に任せると豊かになれることを、今も日本の農村を占める生きた田んぼの遺跡が教えています。
冬も水を張り耕さない・深水管理・自然のままでの農法に拠って、弥生時代に大発展を遂げ、律令時代に掛けて日本全国津津浦々に水稲栽培が普及したのです。
その状態を今日も復元すれば、イネは病気にならずに大きな穂をつけ、化学肥料に頼らなくても豊作が約束されるのです。
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