日本のコメの歴史(2)弥生時代
縄文期には、肉を火で煮炊きする文化であったことが、結果として酵素を失活させて摂る食生活であること、に傾いたり、どんぐりなどを煮てアク抜きしてから捏ねて焼く、これも酵素の失活につながることなどから、長命であることが難しかったと思われます。
皆が短命だと、一子相伝という文化は根付かず、集団に依る子育てや文化の伝承方式になる。コレが結果として権力者を生む事ができす、戦わない民族が形成されたのだろう。
その、小さな平和な集落文化は1万年も続いていたことは、千年に一度の津波被害などから、集落は自然と浜から少し高まった丘に形成されたであろうことが、改めて今になって理解できる。
そこに越の軍人たちが穀物を持って、上陸してきた。学問的には漁撈稲作農民と分類される。
当初は浜に住まいが設営される。兵隊が居住する浦として、浜の字はマトを得ているではありませんか。
兵隊は、魚や海藻を食料として、河口を遡り、扇状地の元の谷口にたどり着き、そこを堰き止めて水路を開削して、流れを横に導き一定間隔に水門を付けて、縦方向に水を流す工事を始める。
北海道でもそうであったように、軍隊の行う仕事は縦横直角の条理に成るのは、2千年の時を挟んでも、そうした規律が身についていたのでしょう。
縦の水路に対して、一定間隔に土手なり石垣を築き、水を貯めれば田んぼの形ができる。
まずそこに火をかけると、畑になる。火事の後の木は再び芽を出すことが難しく、年間通して湛水されると、やがて大木でも朽ちていき、水田全面に陽が射すようになったのでしょう。
イネやヒエは、枯れ木の木陰でも育てることは出来、鉄や青銅のクワなど期待できない古代において、身体を農機具として開梱する事ができるのは水田であり、時間を掛けて平らな田んぼにすることも可能であったと思われます。
全国=津々浦々と書きますが、浦は港や浜でも津も港ならおかしい。津は田んぼ、筆・律・庸と似た書体、縦の水路に横の畦を付けること、すなわち田んぼを作ることは律。田んぼの統計をとって一枚一枚を登録することを、竹簡に書いて綴っておくことを検地、検地台帳は竹簡製、で筆。今も昔もたんぼ1枚のことを一筆といいます。
そんなこともあって、水張った田んぼ群を津。谷間に田んぼがある地域を、谷津などと呼びます。
田んぼが出来て、水が張られてイネの種がまかれる。ヒエも一緒に撒かれたことと思われる。
なんの種がそこに適すか?深水の部分ではイネが、浅水のところではヒエが育ちます。
湿田は分げつを止めることもあれば、中水のままですと分げつは進みます。
浅水ではヒエの勢いが強く、ヒエは早く稔りますので、早く食べることが出来ます。
取り入れは、田下駄をはいて稔ったところから順次、手で摘み取って革袋や竹カゴに入れて、持ち帰り、また稔りが進んで穂が色づいたところから摘むようにすれば、雪が降るまで穀物は収穫できます。
季節のある所では、最後に種が水中に落ち、冬を越して春になり、年越した株から新芽が出て、田植えなしでもイネが育つところ、株が年越できずに種の発芽を以って新芽となる処、様々。
タネは、普通根が先に伸びて芽が後になるが、水中でのイネの発芽は、根はちょこっと膨らむだけで、芽が先に伸び上がり、葉が空気に触れた途端に根が伸びて、着根する仕組みで、深水では、種の出来が影響し、小さな実の種は発芽に応じて浮力が付いて、ヒエなどは浮かんでしまい、着根できないので、大きくしっかり稔った種が、浮かぶこと無く自然によって、品種が選ばれて残っていきます。
冬期湛水深水管理が、イネのタネを育ててくれた条件だと考えています。
縄文後期から弥生時代は、そんな自然と一緒の稲作ではなかっただろうか。
越の倭人は弥生の集落の若者を迎えて結婚して子を設け、田んぼが落ち着いた処から弥生の津の集落が始まったのではないでようか。
越の倭人と書きましたが、倭とはイネ(禾)を作る戦わない(女)人という意味で、朝鮮半島に先史時代に水の補給に来た人を倭人との記録もあり、ワタシは、「戦わないイネをつくるヒト」という「倭」論が好きです。
ちょうど、インカ帝国がそうだったように、土木技術イネの栽培技術を教える長のもとに集落が形成されていったのだと思います。
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