古典(3)律令時代
畑の字には二通りあり、田んぼに火を掛けたから畑、田んぼが乾くと白く見えるようになるので、水の無くなった圃場は畠、つまり、畠と田んぼという字ができた当初、田には常に水が張ってあった証拠になります。
秋の稔りでも田んぼに水が張ってあった幾つかの証拠は、秋津島とは日本列島のこと、津が田んぼであるとすれば、秋にも水が張ってあるイベントは、越の民が日本に来てからの習慣。
瑞穂の国(みずほ)=水穂であり、稔りの時期に田んぼには水が有ったことが伺えます。
開墾して律を行って田んぼを作り、森林灌木を枯らすために、通年湛水はそのための知恵だったのでしょう。多分、母国では行っていなかったのかもしれませんね。
越を逃れてきた兵隊と国王、一緒に逃げる必要の有った兵隊は近衛兵のみ、戦える兵隊は漢の王も採用可能なので、見知らぬ土地に逃げることはなかったでしょう。三国志でも戦える兵はそのような扱いです。
近衛師団がそれぞれの浜に上陸して、河口の開墾を終えると、師団長は集落の長として、今度は稲作に精を出し国家を形成する礎を築きます。
子が育った時に、子らはもう一つ上流に氾濫原を探し、屯田兵として、そこを開墾するようになりました。
下の集落の民は、田んぼの賃料として、租税としてイネを束ねて差し出す、租庸調の租税である。庸とは将に開墾の律に出ること、調は副食、これらを親の兵が差し出し、子の傭兵たちが開墾を進め、租庸調なその一連の費用分担のことである。
従って、新しく庄田ができたなら、その田の所有権は、発令者すなわち天子様、天皇家であったのでしょう。
その庄田を任せられたのが、「権兵衛」さんは百姓の長にして、大蔵任官であり防衛任官である近衛兵なので、後年でも庄屋様は権兵衛だったり太郎兵衛と称したのです。
コレが律令時代の幕開けで、インカ帝国と同じ、帝国主義的、原始資本主義の仕組みであると考えています。
わたしが生まれた集落には、大川から堰で二本の水路が開削され、その用水路に接した田んぼは、全て四角形の田んぼ、二つの水路から離れている田んぼは、等高線に沿って湾曲した畦で囲まれた不正形の棚田です。
当初、堰と用水が掘られて、兵によって条理の田んぼが作られ、供用された後年に、各人が技術を活かして、個人用の棚田を作ったのでしょう。
律令時代に信濃望月の駒を、京都まで運ぶルート上にある、東山道の裏街道の集落であったようです。
村の名は「入村」(イリムラ)一番奥の集落の名が巣栗(スグリ)村長の居た名残、村主をスグリと読む通り。
その下の部落は築地原、駒を一時囲っておいた場所、土手を築きその上に柵を結って牧場とした名残。峠の入り口に大布施、いわゆる宿場町のことです。
信濃川を遡ること標高900m高地にまで、平安時代の前に開墾が為された。
その技量と国事を執り行う熟練の業は、越の国王が兵を伴ってきた所以、と考えないかぎり、急激な国家の形成は難しかったと思います。
そして時代は流れて、戦国時代に於いて、国盗り物語においても、新しい領主になった者が、滞り無く年貢を徴収せしめ、それぞれが国力を保てた所以は、天皇家の年貢租庸調の代理徴収権を競ったのみ。
もし、田んぼがそれぞれの民が勝手に切り開いたものだったら、新しい領主は暴力に訴えない限り税の徴収はできず、いわば暴力団のみかじめ料のような取り立てになるはずで、闘う能力と同時に算術や好かれる能力など試されるべきなのです。
戦国の記録を読んでも、税の徴収に苦労しているフシが見当たらず、上洛して挨拶の記述等から、租庸調の徴収代理者を競ったように思います。
そのようになっていたならば、弥生から律令時代までの、稲作の方式は冬期湛水・深水。不耕起栽培であったと結論付けることが可能です。
田植えを行っていたかどうか?については、もう少し実験を重ねて、面白い結論を導こうと企んでいます。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home