無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

土曜日, 11月 21, 2015

古典(3)律令時代

畑の字には二通りあり、田んぼに火を掛けたから畑、田んぼが乾くと白く見えるようになるので、水の無くなった圃場は畠、つまり、畠と田んぼという字ができた当初、田には常に水が張ってあった証拠になります。

秋の稔りでも田んぼに水が張ってあった幾つかの証拠は、秋津島とは日本列島のこと、津が田んぼであるとすれば、秋にも水が張ってあるイベントは、越の民が日本に来てからの習慣。
瑞穂の国(みずほ)=水穂であり、稔りの時期に田んぼには水が有ったことが伺えます。

開墾して律を行って田んぼを作り、森林灌木を枯らすために、通年湛水はそのための知恵だったのでしょう。多分、母国では行っていなかったのかもしれませんね。

越を逃れてきた兵隊と国王、一緒に逃げる必要の有った兵隊は近衛兵のみ、戦える兵隊は漢の王も採用可能なので、見知らぬ土地に逃げることはなかったでしょう。三国志でも戦える兵はそのような扱いです。

近衛師団がそれぞれの浜に上陸して、河口の開墾を終えると、師団長は集落の長として、今度は稲作に精を出し国家を形成する礎を築きます。

子が育った時に、子らはもう一つ上流に氾濫原を探し、屯田兵として、そこを開墾するようになりました。
下の集落の民は、田んぼの賃料として、租税としてイネを束ねて差し出す、租庸調の租税である。庸とは将に開墾の律に出ること、調は副食、これらを親の兵が差し出し、子の傭兵たちが開墾を進め、租庸調なその一連の費用分担のことである。

従って、新しく庄田ができたなら、その田の所有権は、発令者すなわち天子様、天皇家であったのでしょう。
その庄田を任せられたのが、「権兵衛」さんは百姓の長にして、大蔵任官であり防衛任官である近衛兵なので、後年でも庄屋様は権兵衛だったり太郎兵衛と称したのです。

コレが律令時代の幕開けで、インカ帝国と同じ、帝国主義的、原始資本主義の仕組みであると考えています。


わたしが生まれた集落には、大川から堰で二本の水路が開削され、その用水路に接した田んぼは、全て四角形の田んぼ、二つの水路から離れている田んぼは、等高線に沿って湾曲した畦で囲まれた不正形の棚田です。

当初、堰と用水が掘られて、兵によって条理の田んぼが作られ、供用された後年に、各人が技術を活かして、個人用の棚田を作ったのでしょう。

律令時代に信濃望月の駒を、京都まで運ぶルート上にある、東山道の裏街道の集落であったようです。
村の名は「入村」(イリムラ)一番奥の集落の名が巣栗(スグリ)村長の居た名残、村主をスグリと読む通り。
その下の部落は築地原、駒を一時囲っておいた場所、土手を築きその上に柵を結って牧場とした名残。峠の入り口に大布施、いわゆる宿場町のことです。

信濃川を遡ること標高900m高地にまで、平安時代の前に開墾が為された。
その技量と国事を執り行う熟練の業は、越の国王が兵を伴ってきた所以、と考えないかぎり、急激な国家の形成は難しかったと思います。

そして時代は流れて、戦国時代に於いて、国盗り物語においても、新しい領主になった者が、滞り無く年貢を徴収せしめ、それぞれが国力を保てた所以は、天皇家の年貢租庸調の代理徴収権を競ったのみ。

もし、田んぼがそれぞれの民が勝手に切り開いたものだったら、新しい領主は暴力に訴えない限り税の徴収はできず、いわば暴力団のみかじめ料のような取り立てになるはずで、闘う能力と同時に算術や好かれる能力など試されるべきなのです。
戦国の記録を読んでも、税の徴収に苦労しているフシが見当たらず、上洛して挨拶の記述等から、租庸調の徴収代理者を競ったように思います。

そのようになっていたならば、弥生から律令時代までの、稲作の方式は冬期湛水・深水。不耕起栽培であったと結論付けることが可能です。
田植えを行っていたかどうか?については、もう少し実験を重ねて、面白い結論を導こうと企んでいます。