無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

水曜日, 7月 27, 2016

州羽・須波の郷、ンッ!下の郷

須波郷
 (すわのごう)

『和名抄』に小県郡7郷の一つとして記載されている古代の地名。上田市西部の諏訪部という集落が本拠で、南は千曲川南岸、北は上田市西部の常磐城(ときわぎ)一帯の総称です。須波は諏訪と同じで諏訪神と深い関係があったと考えられます。

古事記の「州羽の海(礫岩の崖がある堰止め湖)に追い詰めるの情景
小牧の六ヶ村堰の取り入れ口、礫岩層の露出帯が千曲川をせき止めて、侵食された崖が千曲川に迫っていて、其処から先には逃れられず、州羽の地にとどまることを約束している。(諏訪湖では流れがないので、その地形は実現できないこと、諏訪に諏訪氏が現れるのは鎌倉時代に忽然と現れており、その間諏訪地方には、稲作も古墳も州羽しなる郷
族は居ない)

州羽は、地名ではなく最初地形を表し、故事の後、洲羽を名乗ることとなり、地名になる。
古代に存在したのは須波氏、小牧・諏訪形・御所・中之条・下之条・尾の山、東山一帯が勢力範囲のはず。

塩田平のある小県郡(ちいさがたぐん)の歴史は古い。文字としては天平13年(741年)正倉院御物である芥子の種を入れた袋に信濃国少県郡の文字が見える
古事記等では、その孫建五百建命(たけいおたけのみこと)が、祟神天皇(すじんてんのう)の御代に初めて信濃国造になった、とあり皇室の先祖が九州におられたころ、その勢力下にあった阿蘇の人々の係累が、畿内に成立した統一政権と関係を持ち、早い時期に信濃国に入ってきて地方小国家を作った。阿蘇の人々が初めて塩田平に入植してきたのは安宗郷、現在の上田市古安曽であったといわれている。かつて阿蘇の神を祭った安曽神社も現存する。
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世紀半ばには小県郡には7郷が成立しており、このうち塩田平には須波、跡部、福田、安宗の4郷がある。
安宗郷には、国土の地霊の神であり大地を神体として祀る生島足島神社がある。
安曽は阿蘇氏、庵蘇あるいは庵噌であり、コメから造る味噌と酒を振る舞う中央の応援隊で、醸造に適した泉を求めて小泉大日堂に移る。大日様は天照大御神で、中央の勢力を示す権威で、参道の向かう先に古安曽神社があり、旧跡なので古が付いて古安曽。
古安曽神社の向かう先は峠道、都から二ツ木峠を越えてきたことが伺われる。
科野大宮・小泉大日堂・生島足島神社は、大きな正三角形。
稲作の歴史の概要
1万年以上前の旧石器時代の遺跡が山麗地帯に何箇所か発見されており、縄文時代、弥生時代の石器土器は各地から出土している。 有史以前から相当の文化が発達していたのは、和田峠から八ヶ岳山ろくにかけて、良質な黒曜石があり、優秀な利器として全国の需要にこたえていた事に関係があると考えられている。
大和政権下では、直轄地の小県郡(ちいさあがたごおり)として栄えた。  
2千年ほど前の弥生時代の石包丁が出土している事から、稲作が早くから行われたようで、神話にも、出雲を追われた建御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪へ赴く途中、塩田平の生島足島神に米粥を煮て献上したとある。

州羽に赴いたのであって、諏訪にではないし、生島様の諏訪では方角違い。生島様にお詣りして、小牧に向かうのなら方角が合っている。

科野大宮の参道の向かう先は、小牧の六ヶ村堰沿いにある、「大神宮旧地」なる神社跡地十数段の石段の上に社跡の平地がある場所を向いていて、ここがはじめに科野大神宮の後か須羽氏の館跡かと考えられる。
この社跡は、堰を開削して一定の長さを掘って水を通し其処から落として、次の堰を開削するその折に神社を作ったのではないだろうか。


大田和親先生の説明の科野大宮社の石碑を読み解くと、小牧の旧宮社は参道を100m(三百歩)位登った山の上にあるらしい。面白い、ここも訪ねてみよう。


下之郷の由来も、もし州羽の海の故事が最初だとすると、シナノのはじめの社のある所が神の郷すなわち上之郷。
上之郷の有り様は、上流にお館、上の条が御所田、中之条、下之条となる。たいした大きさではない条理と天然の岩盤に依る堰止め湖からの取水などから、上田での最初の官営条理開田出あることが伺え、スサノウの目的は騎馬隊の育成となると、もうひとつの本拠地は須川湖のある尾野山で、当初は「お山」。
山頂付近に火をかけて燃やすと、燃えた木は焦げてるだけなので、原生林の際に並べれば持ちもよく立派な牧場の柵になる。

須川はスサノウの須、州羽が須波となり諏訪になる起源。
科野大宮社、家紋が諏訪社と同じ「
三ッ葉根あり梶の葉」だが、元のデザインは「三ッ羽根(州羽)ありシナノ木の葉」なのでないだろうか。


兄の支援隊は阿蘇氏であり、安曽に入って富士山の川と手塚の産川による開田は、田んぼが上にあって、須波のお館から冬至の日没のラインの先に、シナノ神社のお山があり其処に登って翌朝の冬至のラインに、阿蘇氏のお屋形と生島足島神社を田んぼが上でお屋敷が下なので下之郷。

この紋所もまた「三つ葉根あり梶の葉」この神社の有り様は不思議で、夏至日ライン冬至日没ラインの両参道に正対して諏訪神社がある。
諏訪社としていないところに、生島足島社が先の矜持があり、4本の御柱の意味、大鳥居が小牧を向いていることなどから、州羽の海の起源が其処にあることを示しているのではないだろうか。