武石考(州羽→須波お館→餘部郷→ヤジリ→守矢氏→諏訪)
州羽の海に起源した須波氏は、堰を開いて中之条下之条の条理を得て、御山(尾野山その前は尾山)に牧を開いて馬の育成を始めました。
騎馬兵では、集団の騎馬隊として機能する。馬の調教手、飼い手、騎手が必須。ファントムと同じで最新兵器だが、騎手と整備士である草刈ってきて飼えるヒトがいないと、素人の武士にはとても操れません。
この新産業の全ての食料を賄う、水田の長。古代では他と書いてオサ、すなわち「他田の舎人」が、下之郷に古墳がある上田のヒト。
馬の飼い手や騎手など使い手、古代では逆に書いて「手使い」すなわち手塚氏。
騎馬兵の武器は、弓と槍。
青木にある山、子檀嶺岳(こまゆみ)武石の余里口にある子檀嶺神社(こまみねじんじゃ)駒と弓では。
槍先は鉄製、刺し金造り、武具造りを「金刺氏」
はじめの頃の武具のうち鎧は竹製で、その竹を箕の竹(すず)と呼んでいて、箕を編む細竹を「ミスス」当初は箕も武具も箕の竹により作られた。それでミスズ。
それはまた撓る竹で、シナ野の起源なのでは、だから「みすずかる信濃」。本当は「みすず刈るシナ野」箕の竹を刈り武具を造る「科野氏」すなわち、金刺氏。
彼らが南信に進出する謂れは、
科野の駒を京都に運ぶルートにあり、小牧に集められた駒は、須波のお屋形を発って、保福寺峠を経て松本に降りるが、そのルートの美ヶ原の台上に石器時代からの武器商人モリヤ(守矢氏)がいて、当然に通行に困難をきたすことになる。
しかし、老舗は変わり身も早い。馬が新しき武器になることを察知した守矢氏は、台上を焼き払ったか元々防衛上野原にしていたのか、美ヶ原・霧ヶ峰の牧場が誕生する。
美ヶ原に登って見ると、原生林が突然終わって草原になっていて、当初あの原生林に覆われていたことが判るが、なぜ今日の姿になってしまったのか疑問だったが、コレなら理解できる。
そして、霧ヶ峰美し原の高原で育った駒や騎手はまさに高地トレーニング。得に肺活量の大きい馬は効果が期待できそう。
(今日でも、北海道での訓練より菅平や美ヶ原に競走馬の調教に地の利があるのではないだろうか。温故知新)
信濃の駒、望月の駒として珍重された原点が、守矢氏の存在なのではないだろうか。
守矢=ヤジリ(鏃)の存在を守らなければならない。はじめに採掘場所を秘密にする、侵入者を発見できるように、戦えるようにしておく意味からも、台上は見通しの良い原野にしていたことが想像できる。
守矢氏が諏訪であること。上田側の豪族は餘部氏、今の武石余里であること。鷹山の星糞峠の採取所から山の稜線を通り、和田村大出に出て川を渡り山をゆるやかに登ると、余里峠を通って余里に至る。これが餘部の郷であり、その邑の外れにある神社が子檀嶺神社(こまゆみね)駒と弓で符丁もシッカリ合います。
美ヶ原に調練場があるとすると、信濃の駒がひときわ優れていたことも納得です。
御用牧場が御牧であり望月の駒は北御牧の南牧の中心で、一帯が柵に覆われた御用牧場だったのしょう。柵に覆われいたから佐久。
放牧だけでは無く調教や乗り手も育成していた。望月町に「大坪流馬術」の存在がその証。
牧が佐久に移るに連れ、須波のお屋形に集めていた駒も、御代田の馬瀬口に集めて武石を通り築地原に寄せて、大布施に宿を取り、巣栗に居た村主に挨拶をして、大布施より内の山を登って武石峠に至り、松本側に運んだそうです。
駒は途中で入れ替えて、高所トレーニングを積んだ騎馬隊が京に向かったのでしょう。
星糞峠を、守矢氏・餘部の郷・武石巣栗の村主らで守っていた。
そのことが科野の駒を育て、須羽一族の他田・金刺・手塚氏が諏訪に進出した要因になってくのでしょう。
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