日本人のルーツ(その1)
日本に最初に入ってきたのは、ネアンデルタール人らしいですね。
ネアンデルタール人が聡明で争わない人類だったようです。いわば足るを知る、必要なだけ自然から頂いて、自然と共有できるような民族だったのでしょう。
ホモ・サピエンスは、大掛かりな狩猟によって獲り尽す傾向のある、争いを好む人類が誕生したら、覇権を唱えたことは想像に難くないです。
ホモ・サピエンスは、自分たちの猟場を確保するため、ネアンデルタール人を排除しようとして、争いを避けようと、東へ北へ逃れ海を超えて日本にたどり着いたのが、縄文人の先祖だと考えられます。
アイヌ民族やロシアの友の民族を知るかぎり、そうした温和な遺伝子を感じ取ることができます。
稲作をもたらしたのは、中国大陸において南アジアからやってきた、一説には中東経由であるとも言われていますが、呉越の時代、長江流域で稲作を営んでいた民族。
彼らもまた農業をする戦いの必要ない人々であったようです。
黄河流域で活動していた騎馬民族は、人口が増えて食料が足りなくなったら、南へと略奪しに出かけてくる。騎馬民族だから戦いは得意、農耕民族は備えがない。越の古い言い伝えでは「いざとなっったら東の海に逃れれば生きられる。」というようであったらしい。
越は滅びて、王は近衛兵とともに種や稲作に必要な土木の道具を携えて、東に北に船を進めて九州や瀬戸内海に入った模様。
有明の海や瀬戸内の海や浜は、長江流域とそっくり同じ環境。そこ時上陸して縄文人と争うこと無く、漁撈稲作農民となった。すなわち浜に在って漁により食料を得、屯田兵により上流の岩盤露出部から用水を引き、条理の田んぼを整えて稲作を盛んにしたのです。
調査によれば、弥生の男子が稲作、縄文の女子が嫁ぎ、縄文土器のウデを使って、弥生の師から弥生土器のろくろ回しなどを学び、作成したのが弥生土器なそうな。
この時点で、日本人のルーツは戦いの必要ない平和な民族。
倭の字はイネをつくる(禾)戦わない(女)人(にんべん)に代表されるように、海を渡っている時点で、倭を名乗っていたような民族だった。
その頃、朝鮮半島には狩猟騎馬の漢民族の流れをくむ民族がいて、国盗りの戦い繰り返されていて、倭国も巻き込まれて白村江の敗戦により百済が滅びて、日本へ国をあげて逃げて来たようで、仏教やものつくりの伝統が入ってきたのが、ここにルーツがあると思います。
朝鮮から王族や兵隊、手に仕事を持った職人たちも、みな一緒に日本にやってきた。
それまでは、縄文族は山野で制限付きの狩りと木の実など、弥生人は海川と平野部で漁撈と農業製産というように、住み分けができる範囲内での交流ができていて、平均寿命が伸び人口も急増したように平和が保たれていました。
新しく来た人々は、手に職を持ったいわば工業の人々と、戦を生業とする騎馬兵と官僚たち、狩猟民族なので既存の勢力といさかいを起こす者、既存の勢力を飲み込んで新しい豪族が誕生して、そのもの同士や既存の勢力との戦う、今日まで続いている争いの歴史が始まったのです。
私たちの血の中の、3分の1はネアンデルタール人、3分の1が南アジア人、3分の1が北アジア人で構成されているようです。
世界の人々と少し違った特性を持った人種のようですね。
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