無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

木曜日, 8月 04, 2016

日本人のルーツ(その1)

日本に最初に入ってきたのは、ネアンデルタール人らしいですね。
ネアンデルタール人が聡明で争わない人類だったようです。いわば足るを知る、必要なだけ自然から頂いて、自然と共有できるような民族だったのでしょう。

ホモ・サピエンスは、大掛かりな狩猟によって獲り尽す傾向のある、争いを好む人類が誕生したら、覇権を唱えたことは想像に難くないです。

ホモ・サピエンスは、自分たちの猟場を確保するため、ネアンデルタール人を排除しようとして、争いを避けようと、東へ北へ逃れ海を超えて日本にたどり着いたのが、縄文人の先祖だと考えられます。

アイヌ民族やロシアの友の民族を知るかぎり、そうした温和な遺伝子を感じ取ることができます。

稲作をもたらしたのは、中国大陸において南アジアからやってきた、一説には中東経由であるとも言われていますが、呉越の時代、長江流域で稲作を営んでいた民族。

彼らもまた農業をする戦いの必要ない人々であったようです。
黄河流域で活動していた騎馬民族は、人口が増えて食料が足りなくなったら、南へと略奪しに出かけてくる。騎馬民族だから戦いは得意、農耕民族は備えがない。越の古い言い伝えでは「いざとなっったら東の海に逃れれば生きられる。」というようであったらしい。

越は滅びて、王は近衛兵とともに種や稲作に必要な土木の道具を携えて、東に北に船を進めて九州や瀬戸内海に入った模様。

有明の海や瀬戸内の海や浜は、長江流域とそっくり同じ環境。そこ時上陸して縄文人と争うこと無く、漁撈稲作農民となった。すなわち浜に在って漁により食料を得、屯田兵により上流の岩盤露出部から用水を引き、条理の田んぼを整えて稲作を盛んにしたのです。

調査によれば、弥生の男子が稲作、縄文の女子が嫁ぎ、縄文土器のウデを使って、弥生の師から弥生土器のろくろ回しなどを学び、作成したのが弥生土器なそうな。

この時点で、日本人のルーツは戦いの必要ない平和な民族。
倭の字はイネをつくる(禾)戦わない(女)人(にんべん)に代表されるように、海を渡っている時点で、倭を名乗っていたような民族だった。

その頃、朝鮮半島には狩猟騎馬の漢民族の流れをくむ民族がいて、国盗りの戦い繰り返されていて、倭国も巻き込まれて白村江の敗戦により百済が滅びて、日本へ国をあげて逃げて来たようで、仏教やものつくりの伝統が入ってきたのが、ここにルーツがあると思います。

朝鮮から王族や兵隊、手に仕事を持った職人たちも、みな一緒に日本にやってきた。

それまでは、縄文族は山野で制限付きの狩りと木の実など、弥生人は海川と平野部で漁撈と農業製産というように、住み分けができる範囲内での交流ができていて、平均寿命が伸び人口も急増したように平和が保たれていました。

新しく来た人々は、手に職を持ったいわば工業の人々と、戦を生業とする騎馬兵と官僚たち、狩猟民族なので既存の勢力といさかいを起こす者、既存の勢力を飲み込んで新しい豪族が誕生して、そのもの同士や既存の勢力との戦う、今日まで続いている争いの歴史が始まったのです。


私たちの血の中の、3分の1はネアンデルタール人、3分の1が南アジア人、3分の1が北アジア人で構成されているようです。

世界の人々と少し違った特性を持った人種のようですね。