無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

金曜日, 1月 20, 2017

古事記から

上田には海はないけれど、州羽の海がある。
古事記に最初に出てくる今も通用している名、諏訪氏だが、記述は諏訪ではない州羽だ。「州羽の海に追い詰めた。」とある。
誰もが、地名だと思うだろう。だが、いにしえの時に京都から東下りの軍隊に、コタンの古老に地名を聞いただろうか?否、筆者は地形を説明していると読んだ。

諏訪の海に追い詰めなければならないが、諏訪湖には、追い詰められて逃れられない地形はない。また、洲羽ができるには激流が必要だが、諏訪湖には流れがなく、侵食のエネルギーがないので、諏訪湖を州羽の海と決めつけるには無理がある。
「州羽の海」の州とは中洲の「州」小砂利混じりの岩のこと、羽とは崩れた崖のこと、合わせて、大川によって侵食され、小砂利の岩が露出している山崖と、その川がせき止められてダム湖のようになっている場所を探す。
その次の句で、その者を其処に留めて「州羽を名乗れ」とある。 諏訪湖と諏訪氏の始まりの物語である。
歴史が証明している。
諏訪に諏訪氏が現れるのは、鎌倉時代になって突然であり、諏訪地域・伊那地域にスワ氏は見当たらず、歴史の謎になっているのです。
上田には、諏訪が2箇所あります。諏訪形と諏訪部です。 平安時代の諏訪形に須波氏なる豪族が存在していました。すわがたは、須波氏の館なのです。
問題は「州羽の海」ですが、諏訪形の隣の大字小牧地域の地形は、東北部が切り立った山になっていて、西北より千曲川の激流が寄せて、Y字に空いた南側に洲が広がっています。
軍を追い込むところとして最適な地形であり、山の端から千曲川の河床にまで、礫岩の地層が伸びていて、現代でも何段もの自然のダムが川を横断していて、古代にはその上流がダム湖即ち海だった場所であることが伺えます。
現代は新幹線の橋脚が立っている河原に降り立ってみると、そこからの眺めはまごうことなく『洲羽の海』、眼前に砂礫の岩が作る天然のダム湖、現代の六ヵ村堰の取り入れ口のダム湖、目を閉じて堤防を取り除けば、科野国分寺の庭先まで続く海が出現する。
右手に道路の路肩が迫る。擁壁を取り除けば、そこは切り立った礫岩の岩肌だったはず。見上げる山容には幾条かの「洲羽」が確かに見えているではないか。 南から上田に入った軍隊を追い詰めるのは、この場所になります。 逆に、北から上田に入るには、坂城ルートは千曲川に阻まれ戸倉辺りがその場所になりますので、合致せず、諏訪部は後の時代の呼称でしょう。 白村江での敗戦が確かになって、軍馬の威力に目覚めた勢力が、謀反を偽ってこの地にたどり着き、駐留をしたのが科野の始まり。西暦670年頃の出来事とみた。

http://simokita.org/sight/siriya/

科野の名の由来を、筆者はシにこだわってみた。師団ではないか?三国志に出師表が有名だが、師団の野とは?白村江で軍隊は馬であることを知った、ある勢力が軍馬の養成所を東の未開地に求め、上田一体をその適地と見定めたのだろう。今は師団だが当時の師は軍のこと。
小牧に駐留し、尾山を焼き払い山頂の平、尾野山須川一体を放牧場にして、馬を育てる。
堰を、小牧より取り込んで、条理を整備して、上の条(御所)中之条、下の条と整備して、米を育てたのが上田の最初で、そこが師ナ野だ。

古安曽神社は、東の峠を向いて立ててある。この方角から来たのだろう。安曽とは阿蘇、蘇を作る家、神社の作りが生島足島神社に似ている。小泉大日堂の参道は長くその方向はまごうことなく古安曽神社に至ります。

小泉大日堂は天皇家の神様、蘇は酒とか甘酒、餅、みその類、小泉大日堂の前にある橋の名が「醤油窪橋」この地一体が海成岩でできており、染み出す水は宮水のはず、酒作りの寺であることが庫裡の構造で判る。
都が奈良に在った頃、防人の必要など軍事国家として体裁を整えるため、急ぎ騎馬の手配をして、そこができた時に、師の野に遷都の必要性も感じて、科野大宮を常田に移し、遷都の地鎮のため生島足島神社を作り 阿蘇の社を小泉大日堂に移して、地鎮をなした頃、世が平和になったのでしょう。 沙汰止みの名残を惜しんで、生島様と科野大宮の間の山頂に大鳥居を立てたものでしょう。 科野大宮の石碑にある鳥居場(諏訪形の市杵島様の冬至のライン)を発掘する必要があります。

この企みは、総てが秘密裏に始められた軍事機密基地なのであり、それによって権力を維持し、この体制は江戸時代初期まで続くのだ。

師団の野、軍馬には騎手が必要、手綱を持ち馬の世話をする農夫が2名の、都合3名のセットが一騎だ。
これを百騎単位で創り出す勢力が必要で、騎手の養成所も無くてはならない、馬具も具足も武器も必要で、その人達のための穀倉地帯と官営の農民が必要になる。 騎手と武具は百済系の人々、農村部は倭人が入って来た。
コメ作りは他田氏(オサダ)、騎手は使い手を漢読みで手使い、で手塚氏、金刺氏は弓矢そのまま、鎧は矢竹を編んで作ったのだろう、細竹をすずとよびますので、「みずずかるしなの」御矢竹刈師団野という意味にとれませんか。

騎馬隊を京都に運ぶルートは、東山道ではなく武石峠を使っています。
筆者は武石小寺尾の生まれなのですが、当時寺がありましたのでその跡地という意味で古寺尾なのです。

一つ上の部落が「築地原」馬を寄せておいた築地柵ちです。その対岸は「大布施」峠下の茶屋ですが大きい必要があったのは、数百人の旅人になっているからか、そのまた対岸に巣栗(村長の朝鮮語)が残っています。

美ヶ原に立ってみると、原始林が突然始まっています。2000mの台地、この原ははじめから原野であったのではなく、火を掛けて原始林を焼いた跡、再び木が生えないような使い方をされてきたからでしょう。
牛の放牧は近代でしたが、馬の放牧は長かったと考えています。守矢氏が黒曜石を守るため、見通しを良くするために焼き払い、台地に来ることを拒んでいたと思われます。

そこを通過するルートになっている。古代の最大武器商人である守矢氏と組めば、師団野に入る関所となり、師団を守ることができます。

また、高原の放牧と高原での騎馬の訓練は、素晴らしい高地トレーニングとして、都に降りた馬のうちで優れた騎馬軍団として評価を得て、それが佐久地方や伊那地方に広がっていったのを、裏付けることができます。

因みに、佐久は柵の意味で、牧野は望月や北御牧、南牧など山の手に広がっていましたね。
伊那に、金刺氏、他田氏が台頭するのは平安以後ですが、ルーツを上田に持ってくると整合性が付きます。

時は移って、義仲が上田に来て挙兵する理由ですが、騎馬の訓練に木曽から通っていて、上田の地に騎馬隊を世話する環境が整っていたことがあると思います。今井兼平や手塚太郎などと懇意になる所以です。

戦後、巴御前と手塚別当は別々に逃れるのですが、義仲は別当に巴を託したのではないか、龍ノ口まで落ち延びた時に、はじめてお歯黒を染めたのだと思います。

武将が入れていたら、高貴か女性であることがバレるので、お歯黒はしていかなかったはず。

最後の晩に1人の騎手と巴御前を呼び、「巴を頼む。」「お前は今日から手塚別当と名乗れ。」別当とは代理人のことである。
「巴と夫婦になり子をたくさん造れ。」「太郎は手塚、木曽に送れ」「次郎は今井、須波に置く」「三郎は須羽を諏訪と名乗り、諏訪へ送り要とし、再興を図るように。」「信濃にとどめ京はまzすな。」
と謂うような、ことを命じなければ、二人は落ち延びる理由がない。

そして、山の稜線伝いに戻ることができる。辰ノ口まで戻って巴は身を清めて、別当と夫婦になったのではないだろうか。
諏訪形の生島足島神社の冬至の線の上に、手塚さんらが住んでいる地域の北に、奥別当なる字がこっそりとある。そこが二人の落ち着いた住処でしょう。

諏訪氏が鎌倉時代に忽然と現れたことが頷けるでしょう。

霧ヶ峰・美ヶ原台地の軍事教練牧場を守るラインは、諏訪から上田に抜ける最適ルートは、八島湿原に登り、台の上を抜けて武石峠を武石西内の稜線を経て、大布施に降りるのが一番楽に行ける。

スゲの荒れ野のスゲですが、須我を須波と読めば、渡りは小牧、あるいは菅ならば八島湿原などが面白いです。

さて東山道保福寺峠、中山道和田峠を使い、楽に動ける武石峠ラインを使わなかった理由に、台上の高地トレーニングの基地を悟らせない思惑が在ったと思慮します。

秘密にしておくことにより、上田の騎馬隊が戦国時の重要な軍事産業として、一部の武将の隠し財産になりえます。

はじめは山家の真田氏も、菅平や根子岳や烏帽子を焼いて牧場にすれば、上州までの地域に勢力を誇示する事ができ、武田も上杉も上田一体を放棄することができなかった。

徳川も、戦国時代が終わって平和になるまで、上田の騎馬隊の供給源を無視できなかったのではないでしょうか。