無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

月曜日, 3月 06, 2017

科野大宮起源

科野大宮社石碑

国衙台または須波ヶ岡旧址

常田は (古 須波と稱す社の地高く平かにして傍らに国衙あり 故に須波ヶ岡と号し又国衙台と曰ふ
訳: 常田の宮の旧宮は、平安時代の豪族の須波氏の宮にて、社のあった土地は一段と高い台地にあり、傍らに国府がありました。
それで、須波ヶ岡とか国衙台と謂われていました。
 
(その場所は、大字諏訪形と大字小牧の境目、科野大宮社の向いている方角の丘の上にあります。(滝沢主税先生の小牧の地図の大宮社旧跡の場所))
 天武天皇十三年都を科野に遷さんと欲す 小紫三野王小錦下采女朝臣筑羅を遣はして地形を相せしむ 二人岡に至り圖を製し社に祈る果して吉なり還りて奏し)為に神戸を置く 其の社を摂する六所と曰ふ 国司祀典を修む
訳: 天武天皇13年(686年)に、都をこの上田に持ってこようという試みが有って、小紫(こむらさき)の官位の三野王(みぬおう)と小錦(こにしき)の官位の下采女朝臣筑羅(しもうねめあそんちくら)を派遣して、地形を見るに二人須波ヶ丘から山に登り、地図を整え神主に占ってもらい、天皇に報告し、その為に神社と氏子の里を六ケ所整えました。
遷都の安置社としての生島足島神社を、山の上から冬至の日没線の先下之郷に、その生島足島神社の向かう北の三ツ頭山との直線の上、山の中腹に安曽神社を起源として大日堂と小泉郷を、山の上から国衙台の須波の社を旧址として延長線上、古安曽神社・小泉大日堂との正三角形に大宮を整え、科野大宮社として、
科野大宮より北、太郎山を玄武にして御所を置くべく大星神社と上田郷を設置し、左に諏訪形のに国府脇に竈戸皇神宮を、右に科野国分寺の6神戸(かんべ)を整えたと謂われています。国司はそこにお参りをすることを努めとしました。
常田の社と郷はその時に、ここに移されたのです。
文治中 常田は 八須波絛院璋子内親王の荘田たり 故に常田の荘と稱す 内親王華表を山上に建つ 社を距ること南三百歩ばかり 鳥居場と稱するは旧址なり
訳: 常田を治めていた、(須波郷小牧・諏訪形・御所・中之条・下之条・国分・常田)京都駅付近にお住まいの鳥羽天皇の皇女の八絛院璋子内親王が、文治年間(1185年から1189年)に、華表(大鳥居)を山の上に建てた。
科野大宮旧址の須波の社から、南へ300歩(約600m)ほど登った山頂で、そこを今は鳥居場と呼んでいますが、そこに大鳥居は有ったのです。
(大字諏訪形字奥別当)
生島足島神社の夏至の日昇の線、左は東山

谷の先にある諏訪形側の山頂