天武天皇十三年都を科野に遷さんと欲す 小紫三野王小錦下采女朝臣筑羅を遣はして地形を相せしむ 二人岡に至り圖を製し社に祈る果して吉なり還りて奏し)為に神戸を置く 其の社を摂する六所と曰ふ 国司祀典を修む
訳: 天武天皇13年(686年)に、都をこの上田に持ってこようという試みが有って、小紫(こむらさき)の官位の三野王(みぬおう)と小錦(こにしき)の官位の下采女朝臣筑羅(しもうねめあそんちくら)を派遣して、地形を見るに二人須波ヶ丘から山に登り、地図を整え神主に占ってもらい、天皇に報告し、その為に神社と氏子の里を六ケ所整えました。
遷都の安置社としての生島足島神社を、山の上から冬至の日没線の先下之郷に、その生島足島神社の向かう北の三ツ頭山との直線の上、山の中腹に安曽神社を起源として大日堂と小泉郷を、山の上から国衙台の須波の社を旧址として延長線上、古安曽神社・小泉大日堂との正三角形に大宮を整え、科野大宮社として、
科野大宮より北、太郎山を玄武にして御所を置くべく大星神社と上田郷を設置し、左に諏訪形のに国府脇に竈戸皇神宮を、右に科野国分寺の6神戸(かんべ)を整えたと謂われています。国司はそこにお参りをすることを努めとしました。
常田の社と郷はその時に、ここに移されたのです。
文治中 常田は 八須波絛院璋子内親王の荘田たり 故に常田の荘と稱す 内親王華表を山上に建つ 社を距ること南三百歩ばかり 鳥居場と稱するは旧址なり
訳: 常田を治めていた、(須波郷小牧・諏訪形・御所・中之条・下之条・国分・常田)
京都駅付近にお住まいの鳥羽天皇の皇女の八絛院璋子内親王が、文治年間(1185年から1189年)に、華表(大鳥居)を山の上に建てた。
科野大宮旧址の須波の社から、南へ300歩(約600m)ほど登った山頂で、そこを今は鳥居場と呼んでいますが、そこに大鳥居は有ったのです。
(大字諏訪形字奥別当)
生島足島神社の夏至の日昇の線、左は東山
谷の先にある諏訪形側の山頂
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