霧ヶ峰・美ヶ原文化
黒曜石による矢じりの採掘と加工が鷹山遺跡によってもたらせられ、2万年に渡って黒曜石の矢じりが、日本全国にもたらせられていたことが判っています。
どのような集落によりそれが為されて、どのようにしてそれが守られてきたのでしょうか。
その鍵が、霧ヶ峰と美ヶ原・高ボッチなど高原の形成にあり、守矢氏という名に収められています。
当初は、採掘現場で加工も行われていたはずですが、現地は高原ですので、冬季は今でも雪に覆われ生活することはできません。
当然、岡矢や鳥矢の地に集落が形成され、そこに加工と商いの場が形成されるべきであり、縄文文化の2万年の継続の場所が何処かに用意されていたことでしょう。
「守矢」矢じり産業を守る意味となります。
何から何と何処を守ったのか?
矢じりの黒曜石の鉱床を乱掘から守らねばなりません。
その昔、遠方より旅してきて、強き者だの疾き者が、季節や夜陰に乗じて、現場にたどり着き、かけらを手にして、稜線を走る姿を想像してみましょう。
そんな、命がけの時代も在ったことでしょう。
やがて、集団生活と文化の交換が行われ、石器の文化・土器の文化の交換の中に矢じりから弓矢の文化の交換や通商が発生したことは、想像できます。
その文化は、弥生時代や古墳時代にまで続いていくのです。
加工の文化は後にして、鉱床を守るにはどうしたか?現場は2000mの高原ですが、原生林については鬱蒼と茂っていたはずで、今でも裾野には原生林が広がっています。
美ヶ原をよく見ると、高原の葦原の最後は、原生林が刈りとられたように、直立した大木の断面を残しています。
つまり、高原は森林を焼き払われたことにより、出現しています。
高ボッチ高原・霧ヶ峰高原・美ヶ原高原は、見晴らしを良くして通行を制限する為に作られてある、高原なのです。
遺跡として、林の中しばらく潜った場所に砦跡が散見します。下からはその砦に辿り付けない城跡、獅子ヶ城や鬼ヶ城などの稜線の先端にあるのです。
つまり、砦や城を備え、兵隊を置いて、進入を防いでいたことが伺えます。
高原では、今は、牛の放牧が行われていますが、時代が動いてこの高原が日本の行く末を左右することになるのです。
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