弓矢の工業化
高原の鉱床は、秘密にされ大切に守られていました。
では、どのようにして2万年のビジネスは行われたのでしょうか?
守矢氏は、日本最長の固有名詞です。
一説には80代近く伝えられているようですが、それだけでも2000年近く、ワタシは2万年続いた家系だと考えています。
黒曜石を岡矢に降ろして、この地に大家族制度の加工場を持ち、30歳の長老を頭に、今の工場と同じ仕組みを持って、20歳代の技術者集団、10代の見習い集団を備え、10歳までの子育てをする母系家族集団。
によれば、優れた矢じりを加工する事ができます。
顧客のニーズは、向上しますので、やじりから矢羽根のついた矢。弓の製造も交換文化の中で成長します。
矢羽は鷹の羽。鷹山・鳥羽・鳥矢なる地名が上田市側にあります。
岡谷は昔は「岡矢」あるいは「〇〇矢」ではなかったか?
古の道は稜線。稜線伝いにほぼ一日移動する場所まで、離れないと鉱床は守れませんので、諏訪側というか西日本は岡谷、上田側というか東日本は餘部即ち武石であったはずです。
筆者の住まいは武石ですが、鷹属であるチョウゲンボウの天然営巣地の地が鳥羽山。その平地の字名鳥羽、鳥矢、矢武商いと読める藪合、そもそも武石とは、鉄鉱石が一分角になった原石を算出する鉱床が岩山が露出した、武石公園、その北の集落形成好適地に矢じりの出土が多数、子供の頃一時間も畑に入れば、凄い数の矢じりが拾えました。
よく考えると古代の狩場で、矢じりを無くする狩りが在ったのでしょうか?
否です。当たらなければ矢を回収しますし、当たればやはり矢は獲物と一緒に回収できます。
超高級品で、消耗品ではなかったのです。
武石公園の北が、西日本に向けての加工場であった可能性を捨てきれません。
やがて、守矢氏は須波氏と戦い和解して、一大文化発展を遂げます。
その結果、諏訪大社を二分して諏訪氏と守矢氏により、八幡神社に次ぐ、諏訪信仰の中心地となって、日本中の武士の拠り所になるのです。
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