突厥・筑紫・州羽之海
最初の画像は、モンゴルの突厥国の聖山ウチュケン山です。
次の画像は、阿蘇の根子岳烏帽子岳など。
最後は、長瀬からですが、烏帽子浅間山の山影。
不思議と似ているのです。
この三ヶ所に共通すること、共に馬の産地でありながら場肉食をする。
最初の画像の聖山と、上田市から見た烏帽子がよく似ているのです。
まだ、きれいな画像が撮れないのです。
40数年前に書いた絵があること思い出しました。
突厥のこの山を聖山としていた日昇を崇める放牧騎馬民族が、白村江の敗戦時に、阿蘇に居をしていて、本国に戻ること能わず、そういう立場の民が居た。
筑紫都提府に駐留していた、百済か唐の騎馬兵の残留本体の騎馬育成の民であったと思います。
中大兄皇子と大海人皇子は共に参戦したと伝えられていましたが、もしかしたら別々に、中大兄皇子は水軍に、大海人皇子は陸路だったのかも、先に戻った中大兄皇子が文政を敷いて天智天皇の代に大和朝廷を整えた。
陸路を戻った大海人皇子が、筑紫都督府と共に戻ったかどうかは別として、騎馬兵の重要性に気づき、また、爾後は近畿における大和王朝立国の要を武力、それも騎馬兵の育成にあると定め、戻ること能わないその民を説得し、自分の領国の「美濃の奥に未開の高原があり、そこは阿蘇の数十倍で、モンゴル平原に似た気候であり、そこで生きないか。」
と、持ちかけ、敗走追討を隠れ蓑にして、科野にいざなったのでは。
突厥の民の阿史那(あしな)氏は騎馬と鉄をよくして、アルタイ山脈の南に住み、ウチュケン山を聖山として、500年末から600年に掛けて、東進した一族がいても良い。
タケイオタチノミコトが科野國造りを任され、タケミナカタノカミが科野國州羽之海に至り、朝敵として追われ降参してそこに住むことを強制される。
建五百建命「阿蘇岳にいったん居を構えて後にお立ちになった一族」に史那の國が東方の山岳地帯に桃源郷があるのでそちらに行って、「騎馬兵の育成に励んでもらいたい。」と誘ったのではないか。
阿蘇で生まれて南方で活躍していた元気な王子を「建御名方神」彼を先頭に一族を東方に誘い、須羽の場所すなわち、須波の神の台に立った時、そこに見たものは、古先代が憧れた聖山ウチュケン山そのものの烏帽子岳だったのです。
その山容はまた、阿蘇のそれと酷似していました。
日昇を崇める民が、夏至の朝聖山から日が昇るのを崇めて、定めたのが須波が岡・国衙台と呼ばれる須波の神の社です。
こいつを追い求めて、はや二月あまり、まだ解読の道は遠い。
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