無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 9月 27, 2015

自然食品にこだわる理由(1)

ワタシが、自然食品にこだわる理由のうちのひとつ。
学校を出て入社した途端にドル・ショックオイルシ、ョックの洗礼に見舞われて、会社が希望退職を募り、若かったワタシはどこでも生きられると、トラバーユした会社は丁度1年めに社長が夜逃げ。
技術屋だったワタシが熱く夢を語って、結果的にお客様を騙してた事を知ったのです。
これにはかなりのダメージを受けました。

技術者には社長とは違う工業哲学と、ヒトや社会を見抜く洞察力が必要であることに気づき、それを持ち得ていなかったワタシは結果的に鉄工エンジニアを辞し、試験を受けて土地家屋調査士になったのです。
そこの社会でも、ごまかしや嘘は横行していて、企業哲学は言ってみれば今の中国のようでした。

未熟ゆえに、数件の意に反した仕事をしてしまった事を悔やいでいて、その想いはより社会に役立つ仕事を求めるようになった。しかし、新しく発見した仕事も、研究の段階では社会に役立つテーマでも、イザ運用になるとハイエナ企業の餌食になって、見事に身上と精神をすり減らすことになる。

政治も経済でもつまずいて、最後に平成の市町村大合併では、「地方自治が死ぬよ」と呼びかけて、5万人位の町に留まる案を押して破れ、一敗地に塗れ都落ちを決意、捲土重来を秘めて故郷に戻ったのが10年前です。

『お客様を騙してしまうと、いつか自分の立ち位置を失う』ことを痛いほど知り尽くしました。

そして、55歳で始める最後の生業を、「こんどこそは悔いのないものにしたい。」の想いで始めたのが農業なのです。
生まれは百姓です。 戦後の農村は貧しくとも気位の高い自然農法でした。
昭和35年ころ、農協の組合長が有線放送で『七桁農業を!』と演説して、我が家にやってきたのは、トマトの種と化学肥料と動力噴霧機と農薬でした。 
それまで年商20万円にも満たなかった百姓屋が、その年100万円を売上げて5年後には日に10万円の稼ぎができるようになったのです。

そのお蔭で、ワタシは高専に学べたのですから、化学肥料や農薬の農業を否定することはできません。 それも何も知らなければです。 
高専では優秀の評価を得ることはできませんでしたが、社会に出てから学ぶことを知り、新しい仕事を始めるには、イチから学ぶこと。
また、それが古典にまで行き着くと、プロフェッショナルになれることも、その都度の転職で身につけました。
逆に、古典の存在を知らないうちは、まだまだなのです。

農業すなわち植物の成長の学問は、驚くことにイチが古典なのです。
工業科学者から見ると、百の生業の技量を必要とする農の現場では、頭でっかちの才能では生業ならず、技量に傾けば頭は居留守のは仕方ないことなのでしょう。

先端の技術でも、禅問答から始めねばならぬほど、学と農の距離が離れていますが、トラクターに乗ってる時間、同じ作業を続けている時間に考えるには、禅問答は制約無しでトライできました。

恐竜から哺乳類への変化は?同時に植生も変化したのは?今もふたつの時代の植生や動物が共存してる。
イネ種の仕組みは?それぞれの時代の動物と植物の連鎖は?等々の疑問を頭の中で整理することは、農作業と同時進行できるのです。

たくさんのことが判りました。
同時に頭を失った百姓が作るものは、いきおい中途半端にならざるを得ません。
でも、かなりのことが見えてきましたので、そんな上の空農業も今年だけで済みそうです。
醸造は、夜の時間をかなり割いて学び、農の実験も含めて実験を繰り返しました。 これから古典にとりかかるところです。