草も動物も生命の連鎖の中に有る。
生を受けた目的は不明だが、生きた証として少し遺伝子を変えて子孫に引き継ぐ使命を帯びているらしい。
だからか、誰しも子孫を残そうとする。
イネも雑草もなんとかして、はじめは「分げつ」と言って、根から株分けして新芽を出したり、ランナーや茎根を這わせて、その先に子株を育てる。
やがて、花を咲かせてその種子を付け、種を遠くに運ぼうとする工夫をしている。
必ず、二通り以上の子孫の増やし方を持っている。
それは、生を受ける環境が良好であると限らず、種子を飛ばしてもそのことに依って、子孫を残せるとは限らないからで、「今生きている」その時は良好な環境なのでまず分身して増やし、それでも種子をもうけて遠方に飛ばし、開拓を試みるのである。
たかが雑草一葉でも、努力を怠らないのである。
ヒトの場合、母が女の子を授かると、卵巣の中に卵子を10,000個作って、出産前に持たせるのだそうな。
何故か、いま母体は、身体に恵まれて子を授かることができた。しかし、娘が育つ環境が劣悪だと子どもを育てることができないので、いま母にできる事全てを行っておこう。
というわけで、卵子を作って娘に持たせるのである。
男の場合は少し違う、精子は種付けなので、より強い環境に順応した種子がほしいので、成人した暁にそれは用意されて、使われるのである。
母体では、そのうちのひとつないし二つの卵子が選ばれて大きくなって、精子を受け取る準備をして待ち受けるが、29日たっても誰も現れないと、お役御免になってその卵子は子孫に貢献できずに短い一生を終えるのである。
逆に生を受けるということは、父母、祖母、曾祖母、ご先祖さま、サル、ネズミ、爬虫類、魚、ミジンコ、アメーバ、アミノ酸、というように進化を経て、姓を繋いできた証だ。
ワタシが今、生きているということは、この生命の歴史の中で、太古にアミノ酸として海の中で生を受けた時から、「一回も途切れずに繋がった己にまつわる生命の連鎖」の線上の最後の瞬間に立ち会っているのだ。
道端の雑草であっても、おなじこと、途中で突然宇宙から降って湧いたのでなく、アミノ酸としてはじめて生を受けて、菌であったり苔であったり、海藻であったりして、億年の生命の連鎖のその途切れなき証として、種子を飛ばして双葉から成長する。
どんな命でも生物には、偶然選ばれて生きているという奇跡の証なのである。
畑の雑草を双葉の時に、邪魔だからと摘んで枯らしてしまうと、ちっぽけな草にまつわる、この遠大な生命のドラマは潰えてしまうのである。
ヒトの場合、このようにして選ばれしひとつの卵子と、これまた偶然に一つだけ添い得た精子によって、遠大な生命の連鎖の最後の証として、誕生してくるのである。
地球の裏側、原始時代であったのかもしれない、戦国時代のチャンスだったかも、それなのに「いまの日本人」として、この平和な時代にここに生を持って、立っている。
全く以て、選ばれし民だ。
為さねばならぬことが、有るのではないだろうか。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home