無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 1月 24, 2016

武士道とは、死ぬことと、みつけたり

ヒトは、絶対に死を体験することはできない。

死に至る最後の瞬間まで意識があるとすると、これから死に至る長さと、これまで生きてきた長さは、意識の中では釣り合っている。

ワタシは今66歳だが、これまで生きてきた66年間と、例えば百歳で死ぬとすれば、これからの33年間の長さと濃さを重ねれば、同じ重さになって釣り合う。

百歳になって、あと1日だとすると、生きてきた百年と残りの1日は同じ重さだ。
あと1秒でも、両者は釣り合う。

意識の中では永遠に死ねない。

ヒトは死んだことに気づかずに居て、意識の中では永遠に生きているのだが、廻りから見るとそんなこととは関係なく、時間は進んでしまうので、その方は死んでいくのだ。

死とは、そういうことだろう、とワタシは考えている。


では本当の死に方とは、釣り合った後の方の生き方を言うんだと思っている。

つまり、死に方とは、今からの生き方を言っている。

いさぎよく死ぬということは、潔く生きること。

いさぎよく生きるとは、かっこ悪くても精一杯努力して、いつ死ぬって実は解らないので、生きてる間は生に執着して、ひたすら活きることだと、ワタシは考えています。

どこかにぶつかって、遣り残してポックリ死んだら、それでオシマイ。
生きてるうちは、泥臭く、かっこ悪くが、かっこいい。