小寺尾なる地名考
超ローカルの話題ですが、ワタシの生家は、字名を小寺尾と言います。
起源をたどると、武石村でもかなり古い時代の開墾であるらしいと考えられます。
後に本筋に入るための前段の考察として、付け加えておきます。
弥生時代の条理を伴う天皇家の開墾軍団は、シナノ川を遡って来たわけですが、上流部に原盤の露出した渓谷があり、用水路の開削後に利水に変化がない地点が選ばれ、下流に氾濫原が広がっている地域に入植することになります。
上田市の依田川に於いては、腰越城の直下の丸子八景大渕中渕の岩盤露頭から丸子下堰用水が、腰越上流に飛魚地籍があり、今でも塩田用水、丸子全域上堰を取水しています。
武石村では、前出の上武石市ノ瀬地籍から取水して、下武石の水田に、その次が我が小寺尾地籍、上流には「築地原」と「大布施」の間、ワタシの工作している田んぼの裏手は、岩盤の露出している渓谷になっています。そこから取水すると、小寺尾地籍に水路が容易に開削できたのでしょう。傾斜があるので水準測量は必要ありません。
小さい平という意味で、コデラと謂われていたか、テイラと呼ばれていたような気がします。
付近の地名によると歴史は古く、律令時代に御用牧場の望月の駒を運ぶ東山道の裏街道として存在していて、「巣栗」は村主の在所の地名、「大布施」は峠に掛かる宿場町を示し、「築地原」は駒を集めて放牧していた名残となっていて、峠の向こうの松本側にも「小寺尾」や駒にちなんだ地名「駒越」「厩所」(まやどころ)があります。
さて、当地を見るに、用水に沿って四角形の田んぼがあり、外れたところに投稿線に沿った、細長い田んぼが見られます。
昔ワタシは、最初に等高線の田んぼがあって、後に改田されたとばかり考えていましたが、今でも作付を休んで田んぼを直す作業は、補助金でもない限りしないので、昔はできなかった。
つまり、用水に沿った四角の田んぼは、当初からの開墾軍団の仕事、等高線のは村人が後に行った個人的な開墾だった事に気づきました。
条理制の田んぼを創ること、コレは時の政府の力がなくてはできなかったことであることに、気づいたのです。
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