古代の稲作
古代の稲作は、どのようだったのか?
「禾」 の文字は、ノギと呼び、稲の穂の先の「芒」(ぼう=ノギ)の代表されるように、イネ科の植物のことで、禾偏で表される、イネ科の穀物のことです。
稲作の最初は、暖かい地方でしたので、種を蒔いておくと、落ちたタネが来年になって、芽を出してイネになる。
軽い籾種のヒエやアワは、水中で発芽する時には深水だと、根が出る前に葉の浮力で浮かんでしまいます。
重い籾種が、自然と選ばれて、お米が栽培されるようになったのだと、ワタシは考えています。
便利な鍬や鋤の発明は、江戸時代の後期になるまで期待できず、一番簡単な田んぼ作りは、深水にすること、通年に水を張っていたことなどが考えられます。
それ故に、必然的に選別されてきたのだと思います。
「稲」 の文字をよく見ると、禾偏に手と旧が見えます。
直播だった旧来のイネつくりに、手を加えて改良してきた経緯でできた、良い種籾が「稲」だったのでしょう。
「和」 (ワ=なごみ)ご飯を食べられることは、平和に繋がっていきますが、昨今の事情は、平和を口にすることは、危険な思想になってしまいました。嘆かわしいことです。
「利」 イネに刀を入れて収奪すること。 利益というのは、奪われるものからすれば、危険なものだったことが判ります。
「穂」 大きな穂が付けば、それは天の恵み。
「穫」 収穫の楽しみは、一年の汗の結晶ですので、天候に恵まれての収穫はお祭です。
禾の付いた文字には、ほとんど稲作の結果が現れています。
私の名前は、和美 「美」は羊が大きいという意味で、和は長江より南の稲作民族のシアワセの形態、美は北方の放牧民族のシアワセの形態。
それぞれ、おめでたい名前なのです。手前味噌でした。
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