古寺尾考(その2)
ふる里の村の名は、古くは「入村」、最も奥に入っている。という意味があるが、ワタシは京都側から、最初に入る村という考えの方に組みしている。
東山道の本道、青木村に保福寺峠を越えて、最初の集落が入奈良本、松代と真田を結ぶ地蔵峠の真田側に入ると、入軽井沢など、というわけで「入村」
真田昌幸が上田城に入った際に、当村は村上げて、上田に越したのだそうな。当地あったお寺、琴松寺も上田市房山に移って金昌寺、その住職の苗字は滝澤さん、当地の旧家も滝澤さん。
ワタシ的には、常田に入ったので「常入」となって、こちらは本なので、その時から「本入村」上下に分かれて「上本入村」でした。今は大字が「武石上本入」
当家は、中世に落人として上武石にお世話になっていた一族が移住して、旧姓があり熱田様の分社の有る一族で、その歴史は1000年前に遡るのです。
現在の上田市に末裔を探すのですが、今のところ痕跡なし。下村、橋詰、下城、池内などが考えられるのですが、如何でしょうか。
信幸殿が行った先の松代に、寺尾があるのですが、どうなんでしょうか。
当家の南に寺のお堂が在り、その先に住職の墓石もあるので、本当でしょう。そのことから、当地は古寺尾となって、真田を見張る意味で新しく来た上田様の松平殿の手前も在って、小寺尾と称していると考えています。
ナゼ、こんな昔の話を蒸し返すのかといえば、文字文化のなかった田舎の一族は、秋の夜ながの口伝えに「一族はな。」となって、千年二千年なんてあっという間なのかなと思います。
さて次回は、本題の信濃国府に対する考察に移りましょう。
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