無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

金曜日, 5月 06, 2016

古寺尾考(その2)

ふる里の村の名は、古くは「入村」、最も奥に入っている。という意味があるが、ワタシは京都側から、最初に入る村という考えの方に組みしている。
東山道の本道、青木村に保福寺峠を越えて、最初の集落が入奈良本、松代と真田を結ぶ地蔵峠の真田側に入ると、入軽井沢など、というわけで「入村」

真田昌幸が上田城に入った際に、当村は村上げて、上田に越したのだそうな。当地あったお寺、琴松寺も上田市房山に移って金昌寺、その住職の苗字は滝澤さん、当地の旧家も滝澤さん。

ワタシ的には、常田に入ったので「常入」となって、こちらは本なので、その時から「本入村」上下に分かれて「上本入村」でした。今は大字が「武石上本入」

当家は、中世に落人として上武石にお世話になっていた一族が移住して、旧姓があり熱田様の分社の有る一族で、その歴史は1000年前に遡るのです。


現在の上田市に末裔を探すのですが、今のところ痕跡なし。下村、橋詰、下城、池内などが考えられるのですが、如何でしょうか。

信幸殿が行った先の松代に、寺尾があるのですが、どうなんでしょうか。
当家の南に寺のお堂が在り、その先に住職の墓石もあるので、本当でしょう。そのことから、当地は古寺尾となって、真田を見張る意味で新しく来た上田様の松平殿の手前も在って、小寺尾と称していると考えています。

ナゼ、こんな昔の話を蒸し返すのかといえば、文字文化のなかった田舎の一族は、秋の夜ながの口伝えに「一族はな。」となって、千年二千年なんてあっという間なのかなと思います。

さて次回は、本題の信濃国府に対する考察に移りましょう。