国府考(その3)実地見聞
古代において、大河を渡ることは至難の業でした。
この場所、古代は須波(すわ)地籍、現代は諏訪形と小牧ですが、東山道を松本を越えてきて、最初の難関だが、河床に降りてみると、かなり柔らかい岩盤で、2000年前は広河原になっていて、多分2枚目の画像のように池になっていたと思われます。
そうすると、重たい荷物はこの瀬を使って、船だの筏によって、運ぶことができます。
ヒトは、露出した岩盤の流れを縫って、ヒザか腰まで浸かると、容易に渡ることが出来た場所であることが判ります。
つまり、古代の交通の要所、そこに今、北陸新幹線が交差して、一番の岩盤の要に橋脚をぶち立てている。想いも及ばなかっただろうが、歴史の妙がここに見られます。
この場所、中洲などの「洲」古事記の洲羽の意味は、川の片崖を洲羽。羽は切り羽や羽毛山のハゲルの意味で「羽」と書きます。そこで「スワ」須波・腰越の道標に書いてあった文字は、「す」と「和」の変体仮名で、「す和」今の諏訪市の方角でした。
「砂羽」「州羽」が律令時代に「須波」戦国時代でも「す和」江戸時代になってようやく、諏訪となったのかもしれませんね。
突然の仮説ですが、古事記に諏訪氏が出てきます。
近代の苗字が初めて出てくるのが、諏訪氏ですが、諏訪社の記述によると(上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
その後、大同元年(806)神封戸七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。)とありますが、この当時、「須波」は小県が領土で、場所は諏訪形地籍。
国府を考えるに、新しいデータを手に入れました。
4番目の画像は、上田市諏訪形の「荒神宮」の門柱を解説したもの。
左の竈戸皇神とは、歴史に出てくる皇人は、竈門姫として草壁の皇子(680年ころ)の子、文武天皇の妃がいます。
参上神社とは、律令時代に国府の権限として、傘下の神社に御幣を賜る仕事を取りまとめていた、地方の代表的な神社であり、荒神宮は今でも、そうした位のお宮なのだそうです。
須波氏が国府跡に屋形を構え、そこに留まって、機会を狙っていた場所がこの諏訪形なのではないでしょうか。
千曲川をせき止めた、露出岩盤は、丁度下流の、上之条、中之条、下之条の条理を敷く開田のための用水堰の頭首としては、最適な大自然の構造物です。
東山道が迂回する処、諏訪形の字図では字久保田が国府の入り口になるでしょう。
現地に行くと、東山道はそのまま直進して消えます。
つまり、門を入り参道になっていた。その先が国府跡ではないでしょうか。
国府の裏手には、お屋形様のお屋敷。屋敷の前に「池がほしい」と思ったら、そこのくぼみが字池田、「池だった」らしい。
そこにある田んぼは条ではなく、等高線に沿った曲がり田、すなわち、後の世になって御舘が廃止された以後、村人が勝手に作ったので、条理ではなかった。
さてその条理だが、御所には3段の丁の付く字がある。
上満丁、中満丁、下満丁である。水田三段が社殿に、それを「御所田」と呼んでも良さそうです。
木曽義仲の最後を看取って、巴午前を連れて逃げた、手塚別当。共に最後を遂げた手塚太郎の在所は、上田市手塚地籍、手塚は金刺氏の末裔、手塚には王子塚があり、それ故の手前塚なのか。
現在手塚別当の末裔は、この諏訪形の山手、須川湖におらっしゃる。
そこに奥別当なる字が有るのはナゼ。 奥別当があれば(表)別当があったはず。手塚別当とは、もともとこの地の出身で、地名を冠して太郎と分けていたのかも。
須川湖って、諏訪湖と読めば一文字違い、「スガワコ」
歴史探訪、おもしろきかな。
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