無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

火曜日, 5月 17, 2016

国府考(その3)実地見聞


小牧の渡。千曲川と神川が合流した少し下流に、平らな岩盤が流れをせき止めるように、露出している場所があります。


古代において、大河を渡ることは至難の業でした。
この場所、古代は須波(すわ)地籍、現代は諏訪形と小牧ですが、東山道を松本を越えてきて、最初の難関だが、河床に降りてみると、かなり柔らかい岩盤で、2000年前は広河原になっていて、多分2枚目の画像のように池になっていたと思われます。

そうすると、重たい荷物はこの瀬を使って、船だの筏によって、運ぶことができます。
ヒトは、露出した岩盤の流れを縫って、ヒザか腰まで浸かると、容易に渡ることが出来た場所であることが判ります。

つまり、古代の交通の要所、そこに今、北陸新幹線が交差して、一番の岩盤の要に橋脚をぶち立てている。想いも及ばなかっただろうが、歴史の妙がここに見られます。

この場所、中洲などの「洲」古事記の洲羽の意味は、川の片崖を洲羽。羽は切り羽や羽毛山のハゲルの意味で「羽」と書きます。そこで「スワ」須波・腰越の道標に書いてあった文字は、「す」と「和」の変体仮名で、「す和」今の諏訪市の方角でした。
「砂羽」「州羽」が律令時代に「須波」戦国時代でも「す和」江戸時代になってようやく、諏訪となったのかもしれませんね。

突然の仮説ですが、古事記に諏訪氏が出てきます。
近代の苗字が初めて出てくるのが、諏訪氏ですが、諏訪社の記述によると(上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
 諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
 その後、大同元年(806)神封戸七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。)とありますが、この当時、「須波」は小県が領土で、場所は諏訪形地籍。


諏訪湖まで追い詰めるとあるが、諏訪湖には抜け道が沢山あり、二兎を追うではないが、追い詰めることはむずかしい。では、東山道の詰め所、小牧の渡しならどうだろう。逃げられない。

歴史書や古墳によれば、諏訪氏の元の豪族、金刺氏は手塚の先祖、他田氏、須波氏と皆、この小県に痕跡を残しているのです。

須波に封られて、鎌倉時代になって始めて、諏訪氏が諏訪の地で登場するのです。それまでは須波氏は、この地にとどまっているのです。

諏訪の方々に叱られるか知れませんが、須波氏の居城が、諏訪の御屋形、すなわち諏訪形なのです。



 国府を考えるに、新しいデータを手に入れました。

4番目の画像は、上田市諏訪形の「荒神宮」の門柱を解説したもの。

左の竈戸皇神とは、歴史に出てくる皇人は、竈門姫として草壁の皇子(680年ころ)の子、文武天皇の妃がいます。

参上神社とは、律令時代に国府の権限として、傘下の神社に御幣を賜る仕事を取りまとめていた、地方の代表的な神社であり、荒神宮は今でも、そうした位のお宮なのだそうです。

須波氏が国府跡に屋形を構え、そこに留まって、機会を狙っていた場所がこの諏訪形なのではないでしょうか。


千曲川をせき止めた、露出岩盤は、丁度下流の、上之条、中之条、下之条の条理を敷く開田のための用水堰の頭首としては、最適な大自然の構造物です。

東山道が迂回する処、諏訪形の字図では字久保田が国府の入り口になるでしょう。

現地に行くと、東山道はそのまま直進して消えます。
つまり、門を入り参道になっていた。その先が国府跡ではないでしょうか。

国府の裏手には、お屋形様のお屋敷。屋敷の前に「池がほしい」と思ったら、そこのくぼみが字池田、「池だった」らしい。
そこにある田んぼは条ではなく、等高線に沿った曲がり田、すなわち、後の世になって御舘が廃止された以後、村人が勝手に作ったので、条理ではなかった。

さてその条理だが、御所には3段の丁の付く字がある。
上満丁、中満丁、下満丁である。水田三段が社殿に、それを「御所田」と呼んでも良さそうです。

木曽義仲の最後を看取って、巴午前を連れて逃げた、手塚別当。共に最後を遂げた手塚太郎の在所は、上田市手塚地籍、手塚は金刺氏の末裔、手塚には王子塚があり、それ故の手前塚なのか。

現在手塚別当の末裔は、この諏訪形の山手、須川湖におらっしゃる。

そこに奥別当なる字が有るのはナゼ。 奥別当があれば(表)別当があったはず。手塚別当とは、もともとこの地の出身で、地名を冠して太郎と分けていたのかも。

須川湖って、諏訪湖と読めば一文字違い、「スガワコ」

歴史探訪、おもしろきかな。