無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

木曜日, 8月 17, 2017

モンゴリアン2(決断)

この時点で、日本の人種は、ネアンデルタール人の縄文人と南系中国人。

 朝鮮半島に稲作がもたらされるのは、日本と経路が違って、その頃すでに半島には大陸から、騎馬民族+中原農耕民族が混血して、コーリャンを主食とする民族が居住していたので、海上からの稲作の突然の上陸は難しかったと思います。
 弥生文化が進んで九州地方に文化が芽生えた頃、半島との交流が始まり互いの文化が交換されて、進出ではなくそれぞれの導入と言う形で、大陸から騎馬民族が、こちらから稲作民族がと言うように、混じり合うようになったのではないでしょうか。

 そのようにして、半島の民族が、九州中国近畿とまじり始めた頃、遣隋使などが記録されるようになり、663年に白村江の戦いに至ったのです。

 百済と倭国のひとたちが、近畿圏に大挙して避難してきたことにより、縄文人・南中国系弥生人・朝鮮ルーツの民が混じり合って、標準的日本人が整いました。

 日本の両端に位置する南九州の民や東北の民の独自性は、近畿に半島系の率が多いことと、地理的な分布として納得がいく事柄です。

 長野県と熊本県の独自性は、もう少し違った形です。
先にお知らせしましたように、阿史那を父とする突厥の民、モンゴル高原ハン・ガイン山脈のウチュケン山を聖なる山と崇める民が筑紫都督府に在ったが、故郷の聖山と同じ形をした火山のカルデラ平原に騎馬の育成地を定めた時、その地を阿史那の蘇りを祈念して阿蘇と名付けたとする。

 何故、馬肉を食べるのか?
 突厥は戦闘専門民族なのです。馬の繁殖・乗馬の訓練・騎兵技術の習得に加えて、鉄の製造・武器一式の製造のすべてを一族あるいは、単独でも調達できる能力を有して居たらしい。
 そして、人馬一体が世界一の軍事技術なのです。
 朝日が出る1時間前はまだ暗闇、それを移動して朝日が上る時、敵と朝日の丁度線上に、騎馬ともに居て攻め勝つ能力は、星も読める日輪の動きも読める。
 それでも敗走するときもある。その際に稜線上を移動するのだが、食糧を馬に求めれば一族の半数は戻ることができる。
 そのために、人馬一体、主が死ねば馬も死ぬように躾けた愛馬を、生肉で食べられる強靭な精神力もまた、突厥のひとなのである。
 
 白村江の敗戦を目の当たりにして、さしもの軍事顧問も再度海を渡って故郷に戻る術を失い、更に東に活路を見出すのは、遊牧民として当然の選択ではあるものの、故郷をさらに離れるのだ。
 はじめの阿蘇の地を離れるにあたり、阿の名をそこにとどめ、諡を史那としたならば、これから目指す、阿蘇谷の数十倍の大きさの無人の新天地の名は「史那の國」としてもおかしくはない。

 山をひとつ超え海に出る。そこで大海人皇子の船にて瀬戸水道を渡り、紀州沖を経由して船団は伊勢の海に至り、美濃で冬を過ごし春を待って木曽山脈の稜線を抜け、高ボッチ高原に至った時、洩矢氏と一戦を交えるのである。

 史記によれば、タケミナカタノカミが藤で、洩矢神が鉄輪を以って戦ったとあるが、逆であろう。勝負にならなかったのではないだろうか?
 あるいはすでに美濃勢により洩矢氏は調略済みで、結果一戦交えて和解したことになったのである。
 だが歴史の妙は、この時すでに両者の合意が有って、500年後に守矢氏と諏訪氏の2頭建ての諏訪社が誕生したのである。
 現在、守矢家78代だそうなので、約2400年になるので、35代目ころにあたる洩矢神の下に付くのである。

 一族がそうなるには、もうひとつのイベントがある。和解の後、美ヶ原に向かった一族郎党が東の空に見たものは、。
 大いなるふる里の聖山ウチュケン山であり、阿蘇で暮らした阿蘇岳そのものが、東の空に忽然と現れたのである。
 そうそれが、聖山、烏帽子岳を中央に、左に根子岳、右に浅間山、而も浅間には噴煙までたなびいて。
 約束通りに、見渡す限り360度、史那の國なのである。

 その聖山、烏帽子岳の山頂から夏至の朝、神なる日昇があがる須波の岡を目指し、この地を永住の地にするのである。

 ちなみに、阿蘇の地で地図を開いてみれば、驚く。
 左に阿蘇山、中央に烏帽子岳、右に御竈門山がある、ご丁寧に根子岳まで用意されている。