無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

木曜日, 8月 17, 2017

モンゴリアン1(弥生の民)

縄文人はネアンデルタール人の生き残りらしいですね。
 ホモ・サピエンスが追ってきたような記述がありますが、先に日本列島に渡ったところで、朝鮮半島と海で切れて別々に生きることが出来たため、縄文のヒトたちにはニンゲンと戦うという概念がないようなのですね。

 その後ホモ・サピエンスは紀元前、中国大陸において、南に長江流域の漁労稲作農民の呉越の民、中原の麦や陸稲の農耕漢民族、北のモンゴルの遊牧騎馬民族などに発展。

 長江より南は、田植えを行うことで増収を図る稲作技術の発展により、戦うより稲作したほうが有利になった。
 北の放牧の民は、天候の左右を受けて食糧に事欠き、騎馬技術の発展により、移動することにより世界の技術を得て、馬と鉄を操れるようになり、戦い上手になってしばし中原の農耕民族を襲うことで、豊かさを手に入れる方法を発見した。

 中原の漢民族は、両方の刺激を受けて智慧が発達し、武霊王のように見えを張らずに真似して賢くなる方法を選び、北から攻められたら南に略奪に向かうようになったが、その矛先は農民ではなく、税収の王にのみ向けて、秋になったら租税の米を略奪する手法を用いて、毎年のように秋に王の庫を襲う狡猾な手法を取ったらしい。

 一方、南の漁労稲作農民の王は、船と種を以て国民を豊かにせしめる技を使って王国を築いていたが、戦うすべもなく東の海に逃げる道を選び、近衛兵とともに東の海に逃れた。

 中国大陸と日本の位置関係は、いまも昔も東の太平洋に出るためには、日本列島を触らずには出られない。
 もともと漁労民なので、一路東に逃れるのではなく、海岸沿いに飲水を得ながら東北に進めば、自然に九州地方の有明海にたどり着く、博多湾を回って瀬戸内海に浮かべば、その2箇所は故郷の長江の下流域にそっくりだ。

 浜に橋頭堡を築き、海で魚を採って、山から平野に掛かる河川の沢口に取水路を取って、氾濫原に水田と水路を穿てば、そこが豊かな弥生の里になった。

 元々縄文の民は平和の民びとだが、食の事情は楽ではなく、狩猟と採取の方法でもあり、また煮炊きを覚えていたため、酵素の摂取に間違いがあって寿命が30年あまり、一子相伝の技術移転は不可能で、山内円山遺跡にありように、育児の母系家族と中央における集団生活に拠って、短命ながら平和に暮らしていた。
 そして、その集落は2万年続いた結果、海沿いの千年毎に大津波の来る場所ではなく、海から離れた岡の上に位置していた。

 その海岸沿いの平野は彼らの生活の場ではなく、弥生の民に争いなく与えられ、その水田の米を対価に、弥生の兵士は縄文の女たちを娶り、縄文の民と共に生きることが出来た、だけでなく、乾燥させた玄米の穀物を煮炊きすることは、酵素を再現できる生きた状態で摂取することになって健康に寄与するので、寿命が飛躍的に伸びたので、その効果もあって両者の融和が一気に進んだのである。

 屯田稲作と漁業の混在の生き方を、「漁撈稲作」と呼び、弥生の大きな特徴です。
 ちょうど、インカ帝国の有り様と同じ手法なのです。
 屯田による条理水田は、上流で岩が露出した河床を取水口にすると永久の水位が得られるので、その下流の氾濫原を条理の水田に変え、今日までそこは条理の田として残っているのです。
 条理田が完成すると、兵士は農民となってそこに留まり、今度は子が兵士となってその上流や隣の平野に向かうことにより、呉越の旧王家に拠る弥生化は進んで行ったことでしょう。あっという間に日本全国に及んだはずです。

 上流に行くために、当然ながら徒歩なので1日以上掛かる場所には、その力及ばず、長野県には飛騨木曽谷以外には、たどり着ける者が居なかったのです。

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