モンゴリアン3(騎兵の解説)
流鏑馬をする騎兵なる、モンゴルの突厥の民を源流とする、騎馬兵のありようは、真田昌之が松代に封されるまで続いた科野の國須波の里のありようです。
兵と馬は人馬一体、主が死ねば馬は2主に仕えず死ぬように躾けられました。そのためには、馬が生まれたときから1人のニンゲンが寄り添うのです。
ですから、騎馬兵の騎手とは元々、農民でなければなりません。
武士でそれを望む者も、やはり、一つの馬を選んで、幼き頃より一緒に厩で育つくらいの気概が必要だったのしょう。
木曽義仲も、駒王丸の幼名で塩田の里に遊んだ記録が残っていますので、実際には住み込みで学んで居たのでしょう。
戦場でも、戦いに並行して馬の世話は主が行わねば、馬も、夜討ち朝駆けなどに付き合ってはくれないのは、容易に想像がつきます。
我が父は、ノモンハンに従軍しましたが、赤紙のいち歩兵でした処、一頭の荒れ馬が居て誰も御せず、誕生の云われから、もともと馬と共に育ったことが幸いして、その荒れ馬を御した処、騎馬兵に昇進した由を聞きました。
関東軍に流鏑馬の騎兵は必要なかったのか、もうそんな知見は徳川300年の平和のうちに見捨てられてしまったのでしょう。
さてお話はもとに戻して、農民である馬の飼主の資質はいかほどに、突厥の民はひとりにして一軍に相当する知識と技を持っていた様子。
星を見て、明日の日昇場所と時間を確実に予測して、敵本陣のその先に回り込む、朝日とともに突撃して、あっという間に本懐を遂げるのである。
敵はまだ朝餉の準備も整わずに居る時間に、輝く日昇の中から忽然と現れ、疾走する馬上から矢を横や後ろに射れる騎兵に、守るすべなど無かったことでしょう。
元や突厥が大きな国家を形成していった、その原動力は超エリート軍神の騎兵にあったのです。
小競り合いや昼間の戦いは、一般の騎馬や歩兵の争いで、流鏑馬兵はまた違った立ち位置を得ていたのではないかと考えています。
平原ではもと遊牧民、科野にあっては稲作をこなす農民、よく馬を飼い、天文や鉄の鍛造を含める武器製造、戦術を学び武術の鍛錬をした。
弓矢の製造など、農鉄革竹工技術者、文武のすべてをマスターした、ひとり軍隊とひとり軍属のスパーエリートだったのです。 (突厥の兵の説明は、そう読めました。)
科野國須波之神の里では、そんな超エリートの養成学校が育まれ、核農家の次男坊を中心に、行って生きる傭兵としての教育が為されて、信濃国の秘密軍事基地に育っていったのです。
信濃国分寺が平将門により焼かれた理由が、塩田に学海が誕生した栄えた理由が、僧に名を借りて全国からの馬の顧客に応える、最高学府がここにあった様が見えてきます。
京の戦場に運ばれる馬の移動経路、何故か武石村の築地原に集められ、大布施の山を東に登りますと、頂上に甲子園ほどの広場があります。そこからなだらかな稜線を歩くと、標高2000mの美ヶ原高原に至ります。
その草原は洩矢神の縄張り、その草原に春に馬と騎手をあげて、半年高地トレーニングをして、稔りを終えた秋の戦いのシーズンに、望みの流鏑馬兵を送り込む。
科野の流鏑馬兵は、あたかも汗血馬の如くの評価を得ていただろう。
そのことが、平将門の乱、義仲の西進の勝機、全国の諏訪信仰、武田から始まって徳川まで珍重せざるを得なかった真田兵の不思議が、見えてきます。
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