モンゴリアン4(山上の契)
天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、同7年1月3日(668年2月20日)中大兄皇子が漸く即位した。
天智天皇3年春、星糞峠まんじゅう山、今美ヶ原台地の草原の東に史那の國を発見し、洩矢神、タケミナカタノ神、大海人皇子らは、突厥の兵の早業に拠って仕留めた鹿の肉を喰らいながら、この素晴らしい異国の騎馬と騎馬兵の装備と、洩矢神のしつらえた精巧な矢羽を、互いに比べたのだった。
突厥の民が謂うに、「この地は空気が薄いので良馬が育つ。」この地で生まれて育てた馬と人は、海岸まで降りると途端に強靭な力を出すことができる。
このことを学んだ洩矢神と皇子は、ここに「山上の契り」を結んだのである。
洩矢神は、これまで鏃の矢羽を商っていたが、これからは鉄器の矢羽を倣い、また騎馬兵の仕組みを表で商い、「この台地を通して騎馬兵を都に送ること。」 タケミナカミタノ神は、聖山の麓に居を構え人馬の育成を行い、史那の國すなわち見渡す限りの科野を縦横無尽に走り回れることを見返りに、この地を永住の地と定めることとなった。
そして皇子が天下を取るまで、全てを覆い隠し秘密裏に行うことを約したのである。
洩矢の配下の案内により今の武石の谷の北の稜線を進み、一度川沿いの平らに降り立ち再び山路を辿って、ついに一行は大河の辺りに至った。
大河の右の山は、中洲のさざれ石が積み重なった山が崩れて羽になっており、そのさざれ石の層はそのまま大河に覆いかぶさって、何筋にも渡って大河をせき止めて、一番高い岩筋の先は流れをせき止め、まるで海のように滔々と水を湛え、大音響とともに流れ落ちていた。
大海人皇子は謂う。「ここを科野國州羽の海と名付けよう。タケミナカタノ神はこの地に留まり、今日より『州羽之神』と名乗り、科野國の國司たるべし。」
「我が部下の他田(唐の語で田の人という意味)を留め、この地を開いて米を作り、それを以って騎馬兵の支払いを為すので、急ぎ騎馬の大軍を整えて欲しい。」
そして皇子は去り、他田の舎人率いる皇軍は、水路を穿ちて州羽の海より水利を得て、下流に科野國最初の条理田を整えたのである。
州羽之神は、この南の山に火を放ち山頂の大地を壮大な牧野にして、一緒に旅してきた馬たちを科の野に放ったのである。
この山頂を暫し下ると湿原があり、底をせき止め池と為して馬の水場も用意できた。
この岡が、最初の科野の牧なのである。今でもこの岡を「お山」と呼び裾野は小牧と呼ばれている。
そして運命の時が訪れた。6月の夏至の朝、日昇が最も北に寄った時、なんと聖山の頂から朝日が昇るのではないか。
すでに日本名を持って州羽を名乗る彼らは、阿蘇の地と同じ名で、こちらでもこの山を烏帽子岳と呼ぶことにして、その日、日昇を仰ぎ見たその岡に社を建て、州羽の社としたのである。
今日でも、夏至の日にその場所に立つと、烏帽子からの日昇を見ることができ、常田の科野大宮社の社が向いている方角の先、国衙台・須波ヶ岡と呼ばれるその場所には、烏帽子岳に向かった20数段の石段を確かめることができる。
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