モンゴリアン6(諏訪氏)
古事記において、現在まで続いている氏で最初に登場するのが、諏訪氏なのだ。
日本書紀など古文書に出てくるスワ氏は、タケミナカタノ神が州羽之神を名乗るわけであるので、時系列に並べると、
1. 科野に入る際に、洩矢氏と戦って和解している。
2. 大海人皇子軍に須波の兵が参戦して勝利に寄与している。
3. 都の水害に際して、科野國須波の神が招聘されている。
4. 水田3段が須波の神に寄進された。
5. スワ郡が科野国と分かれて、また併合されている。
等々なのであるが、鎌倉以前数百年以前の記録であること、諏訪の文字がどの字を使われていたか?について、諏訪方の発表であったり勝手に諏訪と換えていることもあり、スワ氏の足跡はあれども、同一かどうかの信頼度は薄い、
当時、日本一の流鏑馬の技を以って、いのちを拾っただけでなく、諏訪社の起源になったのである。
諏訪社の主は言うまでもなく守矢氏・諏訪氏の二頭立て、一方の守矢氏は68代続く信濃一古い名門なのである。一代30年で交代しても2400年の名門、鎌倉時代1200年代に2頭立てを許した経緯がある。
而も、戦ってのことではない、許すだけの十分な理由を探し出さねばならない。
「科野は山険しく人住めない。」と謂うような記述あるのみ。
筆者は一方で、現代の自然稲作を研究実践して居る者である。弥生時代における稲作の方法が現代に通じると信じ、古くて新しい弥生の開墾の実態を模索している。
かの時代一日で行って働いて帰って来れない距離に、新しく水田を開くことは不可能なので、海岸に至る信濃川・天竜川・姫川・木曽川のいずれも、急峻な谷川がその遡上を阻んでいたので、弥生時代に長野県側で開墾が為されたことは無いというのが妥当な結論なのである。
諏訪氏とは別に、古墳時代になって信濃に急激にヒトが入ってきたことは、遺跡により明らかで、その期を経て、律令時代なって突然に、信濃全体が御用牧になっている。
また歴史のイベントでは、1183年に木曽義仲が唐突に、小県郡依田の荘から出馬をして、破竹の勢いで京に上るのである。
何の前触れもなく辺境に突然現れ、疾風の如く国家を制したのである。
ビックリではないか?そうではない、中国の例をみると普通にあった。モンゴル平原の狼達だ。
騎馬兵であるところに共通項がある。
その昔、中国の馬軍の有り様は、2頭立ての戦車に3名が乗り、御者・槍・タテの役割分担にて、華麗に戦っていた様子。また「連環馬」があり、3頭から5頭の農耕重馬を丸太にて横に繋ぎ、その前にタテをくくりつけて、押し寄せてくる。ヒトなど一気に踏まれてしまうので、逃げ惑うよりほかなかった。
紀元500年から600年頃のその兵は、突厥の兵であり、鏑矢と例の兜が特徴。
馬と弓矢と鉄の製造をよくこなし、ひとりでその総てをマスターした万能の騎馬神として知られている。
馬はひとりとしか生きずに、主を失った馬は食を断って餓死したと言われている。馬にも哲学を躾けた勇者は面白い風習も伝えられている。
勇者を相続したものは、母以外の女性を引き受けたのだそうな。兄弟なら兄嫁その愛人もまた。息子にあっても同様であり、とある時、老婆はどうかと謂う場面では、親類筋から「秩序は守らねば示しがつかぬ。」とのことで、老婆もまた一生を安堵されたそうで、勇敢かつ温情の民であったよう。
世界の騎馬兵を以ても、鏑矢の流鏑馬の起源は、突厥の阿史那氏と鎌倉時代の初代諏訪氏のみ。
騎馬兵にあって馬を食べる民は突厥の兵、飼育農民であって馬の生肉を食するのは、熊本(詳細場所知らず)と長野県上田の農民のみ。
スワ氏は、水害にノウハウを持っていたらしい。水田もこなしていた。
縄文の長野県の特徴は何か?これはもう決まっています。小県郡長和町大門の黒曜石遺跡、「星糞峠の鏃」です。
世界的にも有名、縄文当時は2万年前から採取されていたらしい。
守矢氏68代の起源はこの鏃の販売を手がけた洩矢神に他ならない。
当時の貨幣は何か?貝という説もある、否。「鏃」であっただろう。
矢羽もまた製造困難であったそうな。それは今でも竹製の矢羽根はまっすぐに飛ばない。かなりの腕を要する技なそう。
だとすると、最初は原材料の黒曜石、次に鏃、そして矢羽根が商われていたと、想像に難くない。
今で言えば三八銃にファントム位な違いがある。
鏃が鉄しかも唸って飛ぶ。見たこともない大カモシカが思い通りに動いてくれる。
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