モンゴリアン7(条理の田をつくる)
州羽において、聖山の突厥山を仰ぎ見る岡に社を建てることとなった。
崖をまっすぐ上る用に石段を整え、上の平に社を構えると、それぞれきちんと、聖山と正対している。まるで最初から準備されて待たれていたことを思うのである。
州羽の神は、この時からこの地を科野國として「須波」と称した。
その頃、皇子の残した他田舎人率いる兵たちは、州羽の海の大河をせき止めている、さざれ石の岩の岸辺の裏側を海に向かって掘り割り、そこより流れでる水が、二尋ほどの土手を残して緩やかに広がっていく道筋に向けて土を取り除いていくと、その流れはいつの間にか谷から流れる川に至り、水は谷に向かってゴトゴト音を立てて流れ落ちていく。
舎人は、海辺のさざれ石の岩に芝を張って流れを止めた。
流れが止まると、人々はこの水みちに対して山側の土砂を取り除き、その幅ややはり二尋ほどに至ると、再び流し再び止めて、その溝を下に向かって掘り進めるのだ、その繰り返しによって、やがて水路は背が埋まる程になった。
他田の舎人は、こんどは海の中に大石を投じ石壁を作り、そこに芝を貼ると流れは止まり、芝を外すと流れができた。
谷口には石を積みて同じ仕様の水門をしつらえると、同じことが次の谷に向かって始められた。
水みちが大きな谷を超えた。同じように大水みちは掘り進められていたが、こんどは谷口よりやや下方に小ぶりの水門が作られて、ひと尋ほどの土手を残して肩幅ほどの水みちを造っている。
その水みちを20尋ほどいくと、土手を削って水が流れ落ちるようになっていて、遠くからみるとすだれのように、幾筋もの流れが流れ下って、そこに小川ができている。
小川のいり口から20尋ほど下がったところに、小川と小川の間をつなぐよう大石を並べて、そこに芝や土を張りて、ひざほどの土手を整え、小川の水を向けてやると、そこに池ができた。
兵士は、池の浅瀬を棒で突いたり掻き回したりすると、泥は深みに流れ、やがて私たちが知るところの田んぼができていくのである。
須波の神は、これを見て、「このならしの仕事に、馬が使えるではないか!」と、気づいた。
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