モンゴリアン8(時代考証)
鏑矢の起源は、古代モンゴルの匈奴王が、鳴り矢を以って射る事により、敵の位置を知らせしめ、他の弓手が一斉にその方角に打ち込むことにより、漢民族に勝利して中原に至った。
その故事により嚆矢とは、始まりの「きっかけ」のように使われているだけで、鏑矢が実際に使われることは中国では絶えた。
一方、日本においては、小笠原流の流鏑馬の神事により、鏑矢が使われて残りました。
神事にのみ使われるというのは、その起源に関わっていることを意味していて、鏑矢が日本に伝わった当初、鏑矢を操る民が、乗馬における横射掛けを伝えて、それを伝承した民が居たことの証でもあります。
小笠原流の書物における初出は、『吾妻鏡』にての、早くも文治6年(1190年)には、頼朝の射手として鶴岡八幡宮の弓始めに金刺盛澄らと共に参加しており、建久2年(1191年)、頼朝が大壇那となって再建された善光寺の落慶に供奉し、建久4年(1193年)5月の頼朝による富士の巻狩では、藤沢二郎、望月三郎(重隆)、祢津二郎らとともに弓の名手と記述されています。
この面々を眺めると、藤沢は金刺の祖父の名字、望月、祢津ともに、信州上田佐久において、平案時代から駒を産していた地域の豪族、日本における流鏑馬のルーツが信濃にあることが伺えます。
壬申の乱の折、大海人皇子は宇陀を経由して、日昇の方角を背にして勝利を得ている。
この戦法は、普通の攻め方ではなく、突厥の兵法で、7月東北東の方角より攻め下れば、丁度、山の端から太陽が昇り、敵はその輝きに向かって矢を射ることができない。
しかし、太陽が味方してくれるのは半時ほどなので、奇襲と乗馬に拠る射掛けでしか成功し得ない方法であり、大海人皇子は、流鏑馬の起源に関わる軍を味方にしていることが解る。
当時、それを可能にするには、大陸からの流鏑馬の伝達と育成ができる軍神を味方に引き入れ、大軍の養成場所をどこかに確保したに他ならない。
その後、駒の育成の足跡が、伊那、上田、佐久に広がり、洩矢氏の勢力範囲を広げるがごとく、展開されているので、この地方が有力である。
流鏑馬の技法の、弓に両手を使い横方向の射掛けを、馬を走らせてするには立ち騎馬で、しかも馬を意のままに操る人馬一体にするには、武士のままでは不可能で農民の意識を持って、幼馬の頃から接しなければならない。
鎌倉時代に、流鏑馬の技が上田、佐久の武士に引き継がれているのは、牧において騎馬兵の鍛錬の機会も得られる仕組みが存在していなければならない。
皇子はその後、天武天皇の勅で軍人に騎馬兵の訓練を義務付けていることからも、この手法が日本を制する戦法としても、東から唐と対峙するにも重要な手応えを感じていた。
皇子の領地が美濃であり、須波の兵の加担も記録されている。洩矢神と須波氏の和解も残されており、須波氏と駒の育成は切り離して考えられず、流鏑馬の発展経路からも須波氏が流鏑馬の源流である可能性が大きい。
須波の神の社は、正確に烏帽子岳の頂上を向いている。
このことから、頂きがちょこんと持ち上がった饅頭形の山を崇める流鏑馬の民で、祖国を失って一族が流浪に出られる民は、モンゴル平原に生きた突厥の一族より他に見当がつかない。
この軍神は、百済などの朝鮮系の人ではなく、親の代には平原を駆け巡っていた。
タケイオタチノミコトは、本当の呼び名も、どこから来たかも言えないけれど、ちゃんと日本に居た証である、阿蘇岳にいったん居を置いて「タケ・イヲ」、そこを引き払って再び旅に出た「オタチ」の一族「ミコト」に他ならない。
阿蘇で生まれた息子をタテミナカタノカミ「阿蘇岳南方の勇者」が、須波の神になった所以であります。
後に出てきますが、天武天皇は都を2ヶ所整える必要性を感じて、天智天皇の近江大津の宮から飛鳥浄御原宮に遷都をなし、もう一箇所を科野須波に具体的に進めていた。
翌年に没してしまうので陽の目は見なかったのですが、それが科野大宮社の石碑に詳細に書かれています。
また、騎馬兵の重要性に触れ、天武13年(684年)閏4月5日に詔を発しており、武官に武装と用兵の学と騎馬の訓練を命じて、罰則も併用したところは、鏑矢の起源に倣っていることが見て取れます。
本人は、本気だったのでしょうね。
不運なことに、翌年5月突然の病気で没してしまうのですが、まだ開かれて20年も経たない科野の山に都をなぞと言えば、そりゃあ身内からでも、お隠れを希望するものが出ても不思議ではありませんね。
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