無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

金曜日, 8月 16, 2019

自律躬耕

命がけで国家を護る。本当にできるんでしょうか?
 命懸けで交渉をして、戦争を回避しようとする。そういう気概を、命がけというのです。
 己ではなく、他人である若者のいのちを差し出して、戦争するのを、命がけとはいいません。
 他人のいのち晒して、国家を破滅に追いやる輩から、国民のいのちを護るには、彼らを辞めさせることです。
 さて、命がけで家族を守る。具体的にどうすればいいのか?
こちらは、デモや選挙では実現不可能です。
 家族が死なないように行動に移さないと、あなたは家族を守れません。
 戦争の回避と同じくらい、健康への追求は重要です。
 安全の食を得て、家族に届けなければ、ならないのでは。
 お金も掛けて自分から行動しない限り、護れないのでは?
 
 私は実際に15年間、それを追求してきましたので、僅かに高価な買い物をしただけで、実現できないことは、私が保証します。
 そしてそれは、そんなに難しいことではありませんが、みなさまは、「みんながやっていないから」という理由をつけて、自分をごまかして居るだけで、「家族を守っていない」ことに気がついていないのです。
 芸能人や有名人がガンと戦いっているのが、報じられますが、美談ではありません。
 
 医学も食品学も、命がけで書物を読み漁り、正しい知識と処方を手にするところから、すなわち外交と同じ、科学との交渉なのです。
 医者に丸投げすることではありません。科学との交渉無くして、ほんとうの安全は手にできないのです。
 知識を蓄え、理論武装して野に出ない限り、田畑からも安全を得ること叶いません。
 己の知恵と時間とからだを使い、都会にあって一方で稼ぎながら、家族を守るのです。
 幸いにして時間を持っている仲間もいます。同志を探し交渉やシェアリングをして、自分たちが主導してしないと、実現できないことは、政治がお手本を魅せています。
 彼らに頼っては、騙されるだけ。
 『自律躬耕』
やり始めれば「躬耕も嘆ずるものにあらず」です。
 始めないと何事も、「蹞歩を積まざれば、以って千里に至るなし」で、まず半歩、踏み出すことなのです。 
 なに、家族を護るつもりで始めたこと。一番先に元気になるのは、あなたです。

消費者よ団結せよ

みなさまは、本質的な部分で、間違いを犯しています。
 農協や農民を非難して、わたしの投稿に「いいね」押したからって、何も変わりません。
 安全の食料は、永久に市場には出てきませんので、買って食べている以上、がんで死ぬ確率はほぼ100%となるでしょう。 殺人者に命あずけて、どうするの。 
 まあ、人はいずれ死ぬのだからと、諦める手もありますが、生き延びる努力もしないで、他人を責めても詮無いことです。
 また、政府がするべきとか、社会保障などに頼ろうとする他力本願の方策は、消費税が企業減税やら輸入戻し税などにより、企業に富を集中させた政府のやり方を見れば、安全な食料を政府が主導するとすれば、その配給先はお金持ち優先になり、国民はむしろ危険な食料を受け取る様になるだけ、戦う意味すらありませんね。
 そうして、日本人が韓国などとギシギシやっている間に、世界の安全の食料は中国に買い占められて、残っているのはアメリカ産の安かろう悪かろうの食料と、わが農協提供の安全を明示しない食料だけになるのです。
 自ら団結して、地方に耕す農地を求め、借りるなり買うなりして、消費者自らがリーダーになる、会費制の集まりを組み上げて、会員自らが耕すことをしない限り、安全の食料は手に入らないのです。
 農家に任せることができるのは、時間で雇った耕す技術だけ、委任すれば必ず化学肥料や農薬を入れるでしょう。
 人事と経理と種の手配を、会員が手にして、作業できる会員は作業を、時間がなくお金のある会員は、雇の費用を負担して、自律した自給自足を目指すより他ありません。
 会費制の利点は、日本の税制では会に課税することはできませんので、消費税もなければ、会はめんどうな税の申告すら必要ないので、自ら働いて得る農産品は、タックスフリーとなるのです。
 消費増税どころか消費税ゼロ、所得税ゼロ利益が出たら内部留保して、好きな時に使える、いわば敵討ちだ。
 ただし、会から報酬を得た者は、個人として納税義務がありますので、そこはいち国民として粛々と申告納税するのみです。
 山村には、たくさんの農地と住まいが余っていて、まだどんどん空き家・空き農地が増えていきますので、仲間を募り会費制を以って自給自足を目指す、いまがチャンスなのです。
 ただし、自然科学の学習は必要です。
学而「学んでときにこれを習う」2000年前の中国農村が手本です。

沈黙の農村

日本人は本質の部分で、大きな間違いを起こしています。
 現在が安全で平和だと、勘違いしていることです。
 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いたのは、1964年のこと、その訳本が日本で発売されたのが2001年のこと、私の手元に届いたのはその2版です。
 私の田舎では、まだ、小鳥がささやいていたのは、今から10年ほど前のこと、ブルーベリーの栽培をするに、小鳥が実どころか花を食べてしまうので、鳥よけネットを畑いっぱいに張るのが、大変な作業でした。
 ところがここ数年、だんだん小鳥が居なくなって、ついに今年はネットを全く使用せずとも、小鳥がやって来ることはありませんでした。
 
 1昨年からのことです。ネオニコチノイドの空中散布を、農協が推奨して、8月から9月のイネが稔る頃、見計らって一斉に防除をします。
 まず、虫が居なくなりました。その死骸を小鳥が食べて、小鳥が死に、その死骸を食べてカラスが少なくなりました。
 カラスは、秋になると柿の実をついばんで、標高の低い地域から順番に、平らげて登ってくるのですが、昨年は地域全ての柿が赤いまま残って、木になったまま朽ちました。
 ついに、農村にはカラスさえ居なくなったしまったのです。
 農産物の全てにおいて、除草剤が振りまかれた環境で育ち、殺虫剤が投与されて収穫を迎えるのです。
 アメリカで55年前に予測されたことが、いままさに、日本の農村で起こっているのです。


では、その犯人は誰か?
 モンサントでも遺伝子組み換え社でもありません。
 みなさまの隣で微笑んでいる、真面目な農家のみなさまなのです。
 田んぼの代を掻いた後に、必ず除草剤を撒きます。撒かないと草にやられて、全く収穫ができない状態になります。
 田植え前の苗箱に、私には何なのか知りませんが、白い粉をたっぷり蒔くのが作法のようです。
 そして、収穫前には前出の殺虫剤の、ネオニコチノイドを散布します。
 殆どの農家がそれを行いますので、田んぼには、おたまじゃくしも、カエルもイモリも生きることができないのです。
 自然栽培田は、蜘蛛の巣だらけになりますが、隣の田んぼにはクモも巣をかけておらず、下の土も上のイネもきれいなものです。
 田舎では、キャベツやブロッコリーを栽培していますが、苗を植えた後に、除草剤を散布していますね。
 大丈夫なのでしょうか?いいえ、農家も消費者も等しく、半分の方はガンで死ぬ運命にある事を、政府が言いましたね。
 何故そうなっちゃったのか?
 消費者が、見てくれの綺麗な野菜を求めた結果、農協が市場に忖度して、農薬消毒を多用し化学物質漬けの農業に、切り替えたからです。
 そう、顧客ニーズに、忠実だったのです。
 時々、隣家が農薬散布をする時、風向きに拠って我が家では、母か私の具合が悪くなります。
 散布の空気が漂ってくるだけでも、疾患の恐れがあるのが農薬ですが、それをしない農家は、地域の目の敵になるのです。
 みなさまが毎日、口にしている野菜やお米は、そのようにして育まれた賜物なのです。
 一体、みなさまは、そんな農村を望んだのでしょうか?

終戦記念日に思う

 前提として、私はある友人から冤罪のとがめを受けていて、関係は修復できず、私の方から、罪を認めて許しを請うわけにもいかず、いわゆる被害者の側が放棄を宣言しない限り、復帰できない事を痛感しています。
 どういう人達が、日本を戦争に駆り立てたのか?
 一番の罪人は、未必の殺人。高い見識を持っていた報道人、職を守ろうとして、すなわち、己が食うための給与欲しさに、権力に擦り寄り、忖度した報道を流したことにより、世論が構築されてしまったのです。
 国会議員もまた同じ、一部の権力者の前に無言であった。
それ故に、下級軍人や軍属は、国民をまた植民地の人びとの、人権を無視して暴走しました。
 朝鮮の女性や労働者の問題は、日本国内における日本人の問題でもありえます。
 ただ、日本は敗戦国になって、進駐した米軍が旧日本軍のような振る舞いをせず、ソ連の共産主義に対抗して、進歩した民主主義を日本に対して施したことで、より幸いな今日を得ていました。朝鮮分断戦争の犠牲の下に、ニッポンの復興はなったことを忘れてはいけません。
 いっぽう、朝鮮半島では、南北の軍事対決により、軍国主義を広めざるを得なかった事情もあって、個人の権利が制限された状態により、それぞれの国が、権力に都合よく解決をしてしまいました。
 しかし、個人とか企業には、戦前戦後の思想的や政治的な変更はなく、そのまま個人として、軍属であった企業は、当時は仕方なかったと言えども、解体されなかった企業については人格としての制裁もなく、経済的には一貫して連続した企業として存在しています。
 故に、植民時代の個人からの請求には、法的には、個々の企業として対応していかざるを得ないのではないでしょうか。
 日本国現政府は、この問題の当事者ではないことに気づくべきです。
 また、日本国民も、韓国民と同じ被害者としての立ち位置で、物事を考えないと、間違ったナショナリズムに支配されてしまいます。
 政府間の合意は政府間の問題であり、この度の韓国民の言い分は、被害者としての復権であるので、加害者の関係者は論評できる地位にありません。
 許すか許さざるは、被害者の特権で、加害者が主張できる代物でもないことを、日本人は理解し、感情とは区別して、肝に銘じて、終戦の日を迎えるべきではないだろうか。