無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 5月 22, 2016

インド・シッキム州全体での無農薬取り組み


日本ではせいぜい、数十名程度しかおられない、化学肥料・化学農薬を使わない農業。
トラックの積荷を検査して、化学肥料や農薬を持ち込めば、懲役が待っている。

素晴らしい取り組み。日本では、そんな農家は犯罪者扱いとの違いにびっくり。
こうして、日本は鉄鋼でも、電機でも、農業でも、世界に置いて行かれるのだろうな。

木曜日, 5月 19, 2016

古代の稲作

古代の稲作は、どのようだったのか?
「禾」 の文字は、ノギと呼び、稲の穂の先の「芒」(ぼう=ノギ)の代表されるように、イネ科の植物のことで、禾偏で表される、イネ科の穀物のことです。

稲作の最初は、暖かい地方でしたので、種を蒔いておくと、落ちたタネが来年になって、芽を出してイネになる。

軽い籾種のヒエやアワは、水中で発芽する時には深水だと、根が出る前に葉の浮力で浮かんでしまいます。
重い籾種が、自然と選ばれて、お米が栽培されるようになったのだと、ワタシは考えています。

便利な鍬や鋤の発明は、江戸時代の後期になるまで期待できず、一番簡単な田んぼ作りは、深水にすること、通年に水を張っていたことなどが考えられます。

それ故に、必然的に選別されてきたのだと思います。

「稲」 の文字をよく見ると、禾偏に手と旧が見えます。

直播だった旧来のイネつくりに、手を加えて改良してきた経緯でできた、良い種籾が「稲」だったのでしょう。

「和」 (ワ=なごみ)ご飯を食べられることは、平和に繋がっていきますが、昨今の事情は、平和を口にすることは、危険な思想になってしまいました。嘆かわしいことです。

「利」 イネに刀を入れて収奪すること。 利益というのは、奪われるものからすれば、危険なものだったことが判ります。

「穂」 大きな穂が付けば、それは天の恵み。

「穫」 収穫の楽しみは、一年の汗の結晶ですので、天候に恵まれての収穫はお祭です。

禾の付いた文字には、ほとんど稲作の結果が現れています。

私の名前は、和美 「美」は羊が大きいという意味で、和は長江より南の稲作民族のシアワセの形態、美は北方の放牧民族のシアワセの形態。

それぞれ、おめでたい名前なのです。手前味噌でした。

火曜日, 5月 17, 2016

国府考(その3)実地見聞


小牧の渡。千曲川と神川が合流した少し下流に、平らな岩盤が流れをせき止めるように、露出している場所があります。


古代において、大河を渡ることは至難の業でした。
この場所、古代は須波(すわ)地籍、現代は諏訪形と小牧ですが、東山道を松本を越えてきて、最初の難関だが、河床に降りてみると、かなり柔らかい岩盤で、2000年前は広河原になっていて、多分2枚目の画像のように池になっていたと思われます。

そうすると、重たい荷物はこの瀬を使って、船だの筏によって、運ぶことができます。
ヒトは、露出した岩盤の流れを縫って、ヒザか腰まで浸かると、容易に渡ることが出来た場所であることが判ります。

つまり、古代の交通の要所、そこに今、北陸新幹線が交差して、一番の岩盤の要に橋脚をぶち立てている。想いも及ばなかっただろうが、歴史の妙がここに見られます。

この場所、中洲などの「洲」古事記の洲羽の意味は、川の片崖を洲羽。羽は切り羽や羽毛山のハゲルの意味で「羽」と書きます。そこで「スワ」須波・腰越の道標に書いてあった文字は、「す」と「和」の変体仮名で、「す和」今の諏訪市の方角でした。
「砂羽」「州羽」が律令時代に「須波」戦国時代でも「す和」江戸時代になってようやく、諏訪となったのかもしれませんね。

突然の仮説ですが、古事記に諏訪氏が出てきます。
近代の苗字が初めて出てくるのが、諏訪氏ですが、諏訪社の記述によると(上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
 諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
 その後、大同元年(806)神封戸七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。)とありますが、この当時、「須波」は小県が領土で、場所は諏訪形地籍。


諏訪湖まで追い詰めるとあるが、諏訪湖には抜け道が沢山あり、二兎を追うではないが、追い詰めることはむずかしい。では、東山道の詰め所、小牧の渡しならどうだろう。逃げられない。

歴史書や古墳によれば、諏訪氏の元の豪族、金刺氏は手塚の先祖、他田氏、須波氏と皆、この小県に痕跡を残しているのです。

須波に封られて、鎌倉時代になって始めて、諏訪氏が諏訪の地で登場するのです。それまでは須波氏は、この地にとどまっているのです。

諏訪の方々に叱られるか知れませんが、須波氏の居城が、諏訪の御屋形、すなわち諏訪形なのです。



 国府を考えるに、新しいデータを手に入れました。

4番目の画像は、上田市諏訪形の「荒神宮」の門柱を解説したもの。

左の竈戸皇神とは、歴史に出てくる皇人は、竈門姫として草壁の皇子(680年ころ)の子、文武天皇の妃がいます。

参上神社とは、律令時代に国府の権限として、傘下の神社に御幣を賜る仕事を取りまとめていた、地方の代表的な神社であり、荒神宮は今でも、そうした位のお宮なのだそうです。

須波氏が国府跡に屋形を構え、そこに留まって、機会を狙っていた場所がこの諏訪形なのではないでしょうか。


千曲川をせき止めた、露出岩盤は、丁度下流の、上之条、中之条、下之条の条理を敷く開田のための用水堰の頭首としては、最適な大自然の構造物です。

東山道が迂回する処、諏訪形の字図では字久保田が国府の入り口になるでしょう。

現地に行くと、東山道はそのまま直進して消えます。
つまり、門を入り参道になっていた。その先が国府跡ではないでしょうか。

国府の裏手には、お屋形様のお屋敷。屋敷の前に「池がほしい」と思ったら、そこのくぼみが字池田、「池だった」らしい。
そこにある田んぼは条ではなく、等高線に沿った曲がり田、すなわち、後の世になって御舘が廃止された以後、村人が勝手に作ったので、条理ではなかった。

さてその条理だが、御所には3段の丁の付く字がある。
上満丁、中満丁、下満丁である。水田三段が社殿に、それを「御所田」と呼んでも良さそうです。

木曽義仲の最後を看取って、巴午前を連れて逃げた、手塚別当。共に最後を遂げた手塚太郎の在所は、上田市手塚地籍、手塚は金刺氏の末裔、手塚には王子塚があり、それ故の手前塚なのか。

現在手塚別当の末裔は、この諏訪形の山手、須川湖におらっしゃる。

そこに奥別当なる字が有るのはナゼ。 奥別当があれば(表)別当があったはず。手塚別当とは、もともとこの地の出身で、地名を冠して太郎と分けていたのかも。

須川湖って、諏訪湖と読めば一文字違い、「スガワコ」

歴史探訪、おもしろきかな。

金曜日, 5月 06, 2016

科野国府考察のまとめ

古代稲作を考えることが、循環型の未来の稲作のヒントになるので、先人はどのようにして、ふる里を造ってきたのか?の考察を加えました処、面白いように事象が浮かび上がってきました。
最初の稲作は屯田兵による条理の田んぼ。
その地の条件に水利の取れる上流の岩場の河原があること。
お屋形様の仕事は日常のご神事。国税の代理徴収者としての勤めでも有り、豊作と庶民の幸せを祈る。
ハレの日の神事の場それは、河川の鎮静が必要だったので川を挟んで、お館とハレの神社は対になっていること。
戦国の時のお城に至るには防衛上枡形が必要。
平和の時の入城は、真っ直ぐに国府の御所に入るような作りになるはずで、威厳を示すためにも、条理の田んぼの中央を通過して、最上段にあるべき。
そこは科野一番の大きな条理であること。
よって、科野国府は、上田市諏訪形字久保田周辺、御所の在所は字池田と思われます。

信濃国府の存在痕跡(ワタシ的考察)


古代律令時代、東山道が保福寺峠超えに移された頃、上田には、入奈良本、浦野、小泉、中之条、御所、諏訪形、小牧を通り、千曲川を渡って信濃国分寺に至ったと思われる。

信濃川を遡ってきた、稲作開墾軍団は、千曲川を登って上田に入り、小牧岩下の河床の岩盤を発見した時、小躍りして喜んだことでしょう。

今の六か村堰の取水口には、おあつらえ向きの岩盤が、横断沈床のごとくに取水口に向かって、横たわっています。
下流には、半過の岩鼻によって出来た堆積平野が広がっています。

今の下之条、中之条、御所(上之条)の条里制の田んぼを開墾したのが、かなり初期の時代だったことが、伺われます。

御所の地名が、信濃国府の謂れを伝えていますが、御所自治会の記録によれば、昔は「上之条」であり、「御所があった」という言い伝えにより、「御所」を名乗った。とあります。

ワタシは、古代小県の荘園のひとつで、この地が須波であったことを、御所区の歴史書から読み取りました。

「諏訪形」とは、須波のお館であることに気づきました。


信濃国絵図で、古代東山道を国分寺までたどると、変に迂回している場所に思い至りました。


国府に至る道は、必ず直進して御所にい至るのです。つまり道そのものは、直角に折れて、御所を迂回してまた戻るのです。

諏訪形にありました。

上の地図の中央部分、下の字図で、久保田、花之木、雲雀、広道などがソコです。
現地では、異常に綺麗な石垣の家や水路が目立ちます。

この横に千曲川に向かって、荒神宮がありこの地域では一番格式が高いお宮なのだそうな。
訪ねてみると、門柱に皇神社の文字まであるではないか。

更に千曲川の中洲には直角に道が、その先の常田村には科野大宮様のお社がある。

毎日の礼拝所、河川の向こうには地域と河川を鎮める神社、その名もそれぞれ由緒ある、御所の要件が整っている。

小牧=お牧があることも、御所の要件を備えていて、かなりいい条件。

諏訪形には、もう一つ須川湖があり、須川湖=諏訪湖に近い、ソコには手塚一族が隠れ住んでいて、日向山の奥に奥別当なる字名まで用意されています。

条理の田んぼは、下之条・中之条・御所を超えて、御屋形の所在地の前まで、南北に区画された字名は、ソコが条理の田であり、この場所で終わっていることを示しています。

御所の場所に、今はヒトが住んでいますが、明治の初めまで、家はなく古代の人々の、畏敬など奥ゆかしさが感じられる佇まいとなっています。

いつまでが国府でいつからが須波のお館だったのかは不明というか、思いつきですから。


これで、ワタシの連休の宿題のまとめとします。

古寺尾考(その2)

ふる里の村の名は、古くは「入村」、最も奥に入っている。という意味があるが、ワタシは京都側から、最初に入る村という考えの方に組みしている。
東山道の本道、青木村に保福寺峠を越えて、最初の集落が入奈良本、松代と真田を結ぶ地蔵峠の真田側に入ると、入軽井沢など、というわけで「入村」

真田昌幸が上田城に入った際に、当村は村上げて、上田に越したのだそうな。当地あったお寺、琴松寺も上田市房山に移って金昌寺、その住職の苗字は滝澤さん、当地の旧家も滝澤さん。

ワタシ的には、常田に入ったので「常入」となって、こちらは本なので、その時から「本入村」上下に分かれて「上本入村」でした。今は大字が「武石上本入」

当家は、中世に落人として上武石にお世話になっていた一族が移住して、旧姓があり熱田様の分社の有る一族で、その歴史は1000年前に遡るのです。


現在の上田市に末裔を探すのですが、今のところ痕跡なし。下村、橋詰、下城、池内などが考えられるのですが、如何でしょうか。

信幸殿が行った先の松代に、寺尾があるのですが、どうなんでしょうか。
当家の南に寺のお堂が在り、その先に住職の墓石もあるので、本当でしょう。そのことから、当地は古寺尾となって、真田を見張る意味で新しく来た上田様の松平殿の手前も在って、小寺尾と称していると考えています。

ナゼ、こんな昔の話を蒸し返すのかといえば、文字文化のなかった田舎の一族は、秋の夜ながの口伝えに「一族はな。」となって、千年二千年なんてあっという間なのかなと思います。

さて次回は、本題の信濃国府に対する考察に移りましょう。

小寺尾なる地名考


超ローカルの話題ですが、ワタシの生家は、字名を小寺尾と言います。

起源をたどると、武石村でもかなり古い時代の開墾であるらしいと考えられます。
後に本筋に入るための前段の考察として、付け加えておきます。

弥生時代の条理を伴う天皇家の開墾軍団は、シナノ川を遡って来たわけですが、上流部に原盤の露出した渓谷があり、用水路の開削後に利水に変化がない地点が選ばれ、下流に氾濫原が広がっている地域に入植することになります。

上田市の依田川に於いては、腰越城の直下の丸子八景大渕中渕の岩盤露頭から丸子下堰用水が、腰越上流に飛魚地籍があり、今でも塩田用水、丸子全域上堰を取水しています。

武石村では、前出の上武石市ノ瀬地籍から取水して、下武石の水田に、その次が我が小寺尾地籍、上流には「築地原」と「大布施」の間、ワタシの工作している田んぼの裏手は、岩盤の露出している渓谷になっています。そこから取水すると、小寺尾地籍に水路が容易に開削できたのでしょう。傾斜があるので水準測量は必要ありません。

小さい平という意味で、コデラと謂われていたか、テイラと呼ばれていたような気がします。

付近の地名によると歴史は古く、律令時代に御用牧場の望月の駒を運ぶ東山道の裏街道として存在していて、「巣栗」は村主の在所の地名、「大布施」は峠に掛かる宿場町を示し、「築地原」は駒を集めて放牧していた名残となっていて、峠の向こうの松本側にも「小寺尾」や駒にちなんだ地名「駒越」「厩所」(まやどころ)があります。

さて、当地を見るに、用水に沿って四角形の田んぼがあり、外れたところに投稿線に沿った、細長い田んぼが見られます。

昔ワタシは、最初に等高線の田んぼがあって、後に改田されたとばかり考えていましたが、今でも作付を休んで田んぼを直す作業は、補助金でもない限りしないので、昔はできなかった。

つまり、用水に沿った四角の田んぼは、当初からの開墾軍団の仕事、等高線のは村人が後に行った個人的な開墾だった事に気づきました。

条理制の田んぼを創ること、コレは時の政府の力がなくてはできなかったことであることに、気づいたのです。

木曜日, 5月 05, 2016

腰越のこと


丸子城址
 山城で」戦国時代、真田氏が台頭すると同じ時代に、丸子三左衛門が居城で、はじめ真田に落とされ、配下になって後真田家を貫いた模様。

丸子三左衛門の名の通り、丸子町の始祖であると思われていた。


 山城は腰越の北の山に城が連なります。
丸子城、根羽の砦、鳥屋城と、山頂の幾つかの台場に、山城が築かれていて、武田氏の配下として、備えられたものと思われます。

町史の記録では、山城の東の端に八幡神社があり、北側東内に石垣があり、それが居城跡と謂われていました。

ワタシ考えるに、それでは城主の意味が無い。

岡森諏訪神社、向井腰越にあり、建てられた御柱を見に行って、神社の参道の先に丸子城があることを発見。

これで「向かい」の意味がわかる。お城の向かい側になる諏訪神社、武田の守り神だ。

この城から最短で降りられるところに、お寺全芳院があります。
その石垣が凄い、これぞ城。

丸子三左衛門の居城というか、御屋敷跡と考えられる。

何故か、掘割の名残のように、池がある。
その隅石壁のカーブは、カテナリーカーブと言い、懸垂曲線で糸をたるませて、その半分のカーブに石を積んで、これがカテナリーカーブ。お城の石垣である。

が、この寺はカーブの上半分しか見えていない感じ。堀が埋められている感がある。

寺の石垣としては中途半端。城の石垣の堀を埋めた感じでピタリ。

石壁の中間に水を通したと思われる、今は使ってないけど、はじめから作られた穴が、2箇所あります。

水が通った形跡が見当たらないことから、この石垣は後日流用して寺の塀になったことが推測されます。

写真では、わかりにくいですが、寺ではなく城が最も似合う石垣群です。




極め付きは、
最後の画像の、「左す和道」(左諏訪道)と読めます。

今は諏訪は右へ行くのです。
ローカルですが、この道を左に直進すると、河原に出てそこが「腰越の渡し」今は馬坂橋で、依田川を渡り向井諏訪神社の鳥居横を抜けて、深山部落に、そこには深山諏訪神社があります。

深山集落を抜けると、低い峠を経て古町、当時は長窪城下を経て、大門峠を抜けて、諏訪の高島城に至ります。

諏訪神社はもう一つあり、お城の100mほど西に、一本木諏訪神社があるのです。

丸子城主は、武田あるいは諏訪氏の家臣。毎日お参りするのは一本木諏訪神社、合戦など改まっての時は向井諏訪神社、高島城に赴く時は領地のハズレ峠下にある深山諏訪神社にお参りして、とすれば全てが順調に進みます。

この城あるいは館の有る町組の呼称は、東町・仲町・西町として、今でも城下町の風情があります。

最後の3枚の画像は、お寺の隣に有る民家のもの、石垣が立派で防衛戦になりそう。土蔵にある紋は、武田菱ではなかったが、丸に隅立て四つ目家紋、佐々木源氏なのです。

城主より、偉かった感がありますね。

これが、ワタシの住居から200mのところに起きた事件です。
間に依田川があり、その川の我が家側が向井腰越で、ここはどなたでも立ち入ること可能だと思います。

徳川勢もここに布陣したことでしょう。
ここから依田川を超えて対岸に上がる手段がない。岩崖で切り立っていて、数メートルの崖だが取り付いている間に、上から槍や鉄砲でやられたらひとたまりもない。

大砲だけだが、盲撃ちするわけにも行かず、山の上のお城には届かない。というわけで、対岸の街腰越は、要塞化している。

依田川の下流は今でも、上陸不可能の大渕中渕の景勝地。上流側の岩崖の尽きるところは、既に山が迫っていて、当時は土崖だったでしょう。

丸子の城の特徴は、後ろの内村も同じく、依田川からは打ち掛け不能で、上田側からは徒歩で自由に行き来できる。

つまり、この山城群が、真田兵力の、南の防衛線、万里の長城だ。

続きの幻話はまたの機会に。

水曜日, 5月 04, 2016

武石のこと

 復刻 信濃国絵図 小県編 
がダンボールから出てきました。

ローカルな話題ですが、上田市旧武石村の起源

2枚目の左上中央に武石城址が描いてあります。
明治のはじめの地図です。





上田市下武石の地図。

鎌倉時代に、千葉に本城があった武石胤盛が地頭になって武石城を構築しました。

城下町が形成されていて、枡形らしきクランクも在って、いまでもこの地域には、長屋門や土塀のある武家屋敷の趣があり、武石財閥を保っています。
トマ・ピケティの r>ḡ が納得いきます。
 
お城へ至る参道の右側が家老屋敷、左側が妙見寺。胤盛が妙見講を信心してたことが、千葉花見区の武石町千葉公の妙見神社などからも、一致点があります。


上武石の地図、90度CCWに回転させて、下武石の地図と繫がります。

ナゼここに?
がわかる理屈に、弥生時代に稲作が川を登ってくるのですが、最初に田んぼができる要件とは、鉄器によって、水路の開削や田んぼの造成が出来たとは、考えにくいですね。

用水路を引く時、河床に変化があると、水揚げに困難なので、河床が岩盤で下流に平原が広がっている地域が、最初に開けた地域だと思われます。

この地図の河川途中から河原があり、その上流は渓谷になっている。岩盤地点から用水を引くことにより、安定した取水ができるのです。地図の中央部分から分水しているのが判ります。

この地域上武石。

地図の中央の部分が、城主武石胤盛の館跡で、字名を堀之内。お屋敷の北に参道が付いた立派な神社があります。

城主は、毎朝神に祈ることが日課だったと思います。当時は八幡神社だったのでしょうか。字名は十二ノ宮です。

この習慣などが、国主の館跡などの参考資料になると思います。

付録 千葉氏の起源
https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/documents/151107taiwakai.pdf