無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

水曜日, 7月 27, 2016

safty net



トラクター作業の安全のため、放り出されるのを防ぐために、枠を付けることを考えました。
昔は、全て図面上で考えることができたのですが、歳をとってしまったのと、調査士が長かったので立体思考がむずかしくなってしまいました。

まず試作して座ってみて、あそこそこ寸法直して、継ぎ足して、。
まず大枠のデザインができました。

これを元に、寸法を測り今度は図面上で、もう少し格好良くなるデザインに変更して、そいつを作ってもらうことにしましょう。

武石考(州羽→須波お館→餘部郷→ヤジリ→守矢氏→諏訪)

州羽の海に起源した須波氏は、堰を開いて中之条下之条の条理を得て、御山(尾野山その前は尾山)に牧を開いて馬の育成を始めました。

騎馬兵では、集団の騎馬隊として機能する。馬の調教手、飼い手、騎手が必須。ファントムと同じで最新兵器だが、騎手と整備士である草刈ってきて飼えるヒトがいないと、素人の武士にはとても操れません。

この新産業の全ての食料を賄う、水田の長。古代では他と書いてオサ、すなわち「他田の舎人」が、下之郷に古墳がある上田のヒト。

馬の飼い手や騎手など使い手、古代では逆に書いて「手使い」すなわち手塚氏。

騎馬兵の武器は、弓と槍。

青木にある山、子檀嶺岳(こまゆみ)武石の余里口にある子檀嶺神社(こまみねじんじゃ)駒と弓では。

槍先は鉄製、刺し金造り、武具造りを「金刺氏」
はじめの頃の武具のうち鎧は竹製で、その竹を箕の竹(すず)と呼んでいて、箕を編む細竹を「ミスス」当初は箕も武具も箕の竹により作られた。それでミスズ。

それはまた撓る竹で、シナ野の起源なのでは、だから「みすずかる信濃」。本当は「みすず刈るシナ野」箕の竹を刈り武具を造る「科野氏」すなわち、金刺氏。

彼らが南信に進出する謂れは、

科野の駒を京都に運ぶルートにあり、小牧に集められた駒は、須波のお屋形を発って、保福寺峠を経て松本に降りるが、そのルートの美ヶ原の台上に石器時代からの武器商人モリヤ(守矢氏)がいて、当然に通行に困難をきたすことになる。

しかし、老舗は変わり身も早い。馬が新しき武器になることを察知した守矢氏は、台上を焼き払ったか元々防衛上野原にしていたのか、美ヶ原・霧ヶ峰の牧場が誕生する。

美ヶ原に登って見ると、原生林が突然終わって草原になっていて、当初あの原生林に覆われていたことが判るが、なぜ今日の姿になってしまったのか疑問だったが、コレなら理解できる。

そして、霧ヶ峰美し原の高原で育った駒や騎手はまさに高地トレーニング。得に肺活量の大きい馬は効果が期待できそう。

(今日でも、北海道での訓練より菅平や美ヶ原に競走馬の調教に地の利があるのではないだろうか。温故知新)

信濃の駒、望月の駒として珍重された原点が、守矢氏の存在なのではないだろうか。

守矢=ヤジリ(鏃)の存在を守らなければならない。はじめに採掘場所を秘密にする、侵入者を発見できるように、戦えるようにしておく意味からも、台上は見通しの良い原野にしていたことが想像できる。

守矢氏が諏訪であること。上田側の豪族は餘部氏、今の武石余里であること。鷹山の星糞峠の採取所から山の稜線を通り、和田村大出に出て川を渡り山をゆるやかに登ると、余里峠を通って余里に至る。これが餘部の郷であり、その邑の外れにある神社が子檀嶺神社(こまゆみね)駒と弓で符丁もシッカリ合います。

美ヶ原に調練場があるとすると、信濃の駒がひときわ優れていたことも納得です。

御用牧場が御牧であり望月の駒は北御牧の南牧の中心で、一帯が柵に覆われた御用牧場だったのしょう。柵に覆われいたから佐久。

放牧だけでは無く調教や乗り手も育成していた。望月町に「大坪流馬術」の存在がその証。

牧が佐久に移るに連れ、須波のお屋形に集めていた駒も、御代田の馬瀬口に集めて武石を通り築地原に寄せて、大布施に宿を取り、巣栗に居た村主に挨拶をして、大布施より内の山を登って武石峠に至り、松本側に運んだそうです。

駒は途中で入れ替えて、高所トレーニングを積んだ騎馬隊が京に向かったのでしょう。


星糞峠を、守矢氏・餘部の郷・武石巣栗の村主らで守っていた。
そのことが科野の駒を育て、須羽一族の他田・金刺・手塚氏が諏訪に進出した要因になってくのでしょう。

3次元社会の虚構

幾何学では、1次元・2次元・3次元と定義しているけれど、実は仮説の世界。

1次元とは、直線を想像する有り様で、「点」という広がりのない素点が一方向に連なった点の集合を直線と定義したが、実際にそれを体験することはできない。

次に2次元は平面を定義。線分あるいは直線をその向かう方向と直角の方向に連なった面として捉えること。

仮定の話ですから1次元の前に「点」という次元もあって、コレをなんというのでしょうか?

最後に3次元は平面をそのまた直角の方向に広がった状態。我々はここに住んでいるのです。

測定する時に、我々は体積しか実際には測れず、面積と線分の長さは、実際には図ること不可能で、想像力によってのみ体験できることになっています。

実態は、点の集合としての3次元として仮定されている実社会に住んでいて、この社会には濃淡がある。

空気のように、重い場所軽い場所、風が吹くとその濃淡が波になって、それを風と言ったり低気圧だの高気圧とか、地球があってその中身も材質というように、質も違えば重さも違う。
物質の境界線上に人は住んでる。海もあってその境界線すなわち水平線はいつも波打って揺らいでいて、通常は大潮までだが、地震や隕石によって大津波になったりします。

ユークリッド幾何学では、物事を整然と説明できるのですが、現実は非ユークリッド幾何学の世界なので、実はなんにも判っていないのです。


実は我々は、空間を正しく定義できていない。


たとえは、反対側の概念。

プラス25の正反対はマイナス25で、釣り合うのですが、実社会は3次元なので、XYZで表せるはずなのですが、反対側を指すには、プラスとマイナスで釣り合わせることはできます。

しかし、コレは概念までで、地球上の位置を表すのに使う、経緯度地球の反対側を指すのは、プラスマイナスでは不加能。

太陽と地球の関係、大まかには理解できるが、太陽とワタシがいる場所、両者に動きがあるので、XYZでも経緯度でも説明できません。

人間はまだ、空間をきちんと定義できていないのです。


空間すら掴みきっていないので、4次元目に突入できずにいます。

次次元は時間ということになっているらしいけど、コイツがまた曲者。全く定義できていないような気がしませんか。


こんなこと書くと、みなさま理解不能になって、また宮下オカシクなった。

少し前までまともだったのに!こんな事やってると、アイツみたいになっちゃうんじゃあないか。なんてご心配掛けそうだけど、大丈夫!すこぶるまとも。でもちょっとヘン。

昨日やったこと、朝一でミニバックホーKC007の油圧シリンダー、近所の設計事務所さんにシールを組み換えて貰った(専用のプレス機が必要だった)のをきっちりネジ締めて組み立て完了。

その後、ステンレスのプレートに鉄筋溶接して、型枠組んでコンクリート流し込み、調査士事務所で使うステンレスコンクリート杭作製。

午後は、トラクターの転落防止システム 「セーフティネット」 試作組み立て設計を行いました。
頭で考えていても実現できません。
組んでみて実際に乗ってみて、善し悪しを決め作っていくのです。面白いです、今日もまた続きをやります。

州羽・須波の郷、ンッ!下の郷

須波郷
 (すわのごう)

『和名抄』に小県郡7郷の一つとして記載されている古代の地名。上田市西部の諏訪部という集落が本拠で、南は千曲川南岸、北は上田市西部の常磐城(ときわぎ)一帯の総称です。須波は諏訪と同じで諏訪神と深い関係があったと考えられます。

古事記の「州羽の海(礫岩の崖がある堰止め湖)に追い詰めるの情景
小牧の六ヶ村堰の取り入れ口、礫岩層の露出帯が千曲川をせき止めて、侵食された崖が千曲川に迫っていて、其処から先には逃れられず、州羽の地にとどまることを約束している。(諏訪湖では流れがないので、その地形は実現できないこと、諏訪に諏訪氏が現れるのは鎌倉時代に忽然と現れており、その間諏訪地方には、稲作も古墳も州羽しなる郷
族は居ない)

州羽は、地名ではなく最初地形を表し、故事の後、洲羽を名乗ることとなり、地名になる。
古代に存在したのは須波氏、小牧・諏訪形・御所・中之条・下之条・尾の山、東山一帯が勢力範囲のはず。

塩田平のある小県郡(ちいさがたぐん)の歴史は古い。文字としては天平13年(741年)正倉院御物である芥子の種を入れた袋に信濃国少県郡の文字が見える
古事記等では、その孫建五百建命(たけいおたけのみこと)が、祟神天皇(すじんてんのう)の御代に初めて信濃国造になった、とあり皇室の先祖が九州におられたころ、その勢力下にあった阿蘇の人々の係累が、畿内に成立した統一政権と関係を持ち、早い時期に信濃国に入ってきて地方小国家を作った。阿蘇の人々が初めて塩田平に入植してきたのは安宗郷、現在の上田市古安曽であったといわれている。かつて阿蘇の神を祭った安曽神社も現存する。
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世紀半ばには小県郡には7郷が成立しており、このうち塩田平には須波、跡部、福田、安宗の4郷がある。
安宗郷には、国土の地霊の神であり大地を神体として祀る生島足島神社がある。
安曽は阿蘇氏、庵蘇あるいは庵噌であり、コメから造る味噌と酒を振る舞う中央の応援隊で、醸造に適した泉を求めて小泉大日堂に移る。大日様は天照大御神で、中央の勢力を示す権威で、参道の向かう先に古安曽神社があり、旧跡なので古が付いて古安曽。
古安曽神社の向かう先は峠道、都から二ツ木峠を越えてきたことが伺われる。
科野大宮・小泉大日堂・生島足島神社は、大きな正三角形。
稲作の歴史の概要
1万年以上前の旧石器時代の遺跡が山麗地帯に何箇所か発見されており、縄文時代、弥生時代の石器土器は各地から出土している。 有史以前から相当の文化が発達していたのは、和田峠から八ヶ岳山ろくにかけて、良質な黒曜石があり、優秀な利器として全国の需要にこたえていた事に関係があると考えられている。
大和政権下では、直轄地の小県郡(ちいさあがたごおり)として栄えた。  
2千年ほど前の弥生時代の石包丁が出土している事から、稲作が早くから行われたようで、神話にも、出雲を追われた建御名方命(たけみなかたのみこと)が諏訪へ赴く途中、塩田平の生島足島神に米粥を煮て献上したとある。

州羽に赴いたのであって、諏訪にではないし、生島様の諏訪では方角違い。生島様にお詣りして、小牧に向かうのなら方角が合っている。

科野大宮の参道の向かう先は、小牧の六ヶ村堰沿いにある、「大神宮旧地」なる神社跡地十数段の石段の上に社跡の平地がある場所を向いていて、ここがはじめに科野大神宮の後か須羽氏の館跡かと考えられる。
この社跡は、堰を開削して一定の長さを掘って水を通し其処から落として、次の堰を開削するその折に神社を作ったのではないだろうか。


大田和親先生の説明の科野大宮社の石碑を読み解くと、小牧の旧宮社は参道を100m(三百歩)位登った山の上にあるらしい。面白い、ここも訪ねてみよう。


下之郷の由来も、もし州羽の海の故事が最初だとすると、シナノのはじめの社のある所が神の郷すなわち上之郷。
上之郷の有り様は、上流にお館、上の条が御所田、中之条、下之条となる。たいした大きさではない条理と天然の岩盤に依る堰止め湖からの取水などから、上田での最初の官営条理開田出あることが伺え、スサノウの目的は騎馬隊の育成となると、もうひとつの本拠地は須川湖のある尾野山で、当初は「お山」。
山頂付近に火をかけて燃やすと、燃えた木は焦げてるだけなので、原生林の際に並べれば持ちもよく立派な牧場の柵になる。

須川はスサノウの須、州羽が須波となり諏訪になる起源。
科野大宮社、家紋が諏訪社と同じ「
三ッ葉根あり梶の葉」だが、元のデザインは「三ッ羽根(州羽)ありシナノ木の葉」なのでないだろうか。


兄の支援隊は阿蘇氏であり、安曽に入って富士山の川と手塚の産川による開田は、田んぼが上にあって、須波のお館から冬至の日没のラインの先に、シナノ神社のお山があり其処に登って翌朝の冬至のラインに、阿蘇氏のお屋形と生島足島神社を田んぼが上でお屋敷が下なので下之郷。

この紋所もまた「三つ葉根あり梶の葉」この神社の有り様は不思議で、夏至日ライン冬至日没ラインの両参道に正対して諏訪神社がある。
諏訪社としていないところに、生島足島社が先の矜持があり、4本の御柱の意味、大鳥居が小牧を向いていることなどから、州羽の海の起源が其処にあることを示しているのではないだろうか。


月曜日, 7月 25, 2016

生島足島神社縁起 義仲の遺志を継ぐ

生島足島神社について(生島足島神社HPより転載)
生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。

ご由緒

創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。

生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。


この生島足島神社が始まりで、諏訪神社は後から加えているのでしょう。わざわざ加えた理由は、この社が諏訪本社より先にできていた証であり、本宮である可能性が高いと考えています。


木曽義仲、近江の地で最後は5騎になった。木曽義仲・今井兼平・巴・手塚太郎光盛・手塚別当と伝えられている。

最後の夜。義仲は巴に言う「お前は生きろ。生きて我らがこの時代に生きた証を残してくれ。」手塚太郎の甥(後の手塚別当)に、須和、騎馬の世話を有難う。お前のおかげで、ワシラはこれまで心置きなく戦うことが出来た。巴を助けて須波まで戻してくれ。」
「お前たちは夫婦になれ、沢山子を儲けよ。一子は手塚を名乗り木曽に戻せ、次の子は今井の子として須波を守らせよ。三子は須波を諏訪と改め、岡谷に送れ諏訪神社を再興して、木曽と須波の要とするのだ。」「お前は今日から手塚別当と名乗れ、ワシの代わりとして巴を頼む。」
そのようにして、その未明に巴と別当は信州を目指した。

山の稜線を旅して、丸子城を降り龍の口に差し掛かった時、ふたりに安堵が。「ここまでくれば、もう大丈夫だ。今宵はここで泊まろう。」巴は小さな池を見つけて、衣を脱いで旅の垢を洗射落としし、お歯黒をして妻となる決意をしたのだった。その夜二人は夫婦になった。

妻を連れて戻った手塚別当(別当は武士の役職として「代理」の意味)は、翌朝生島足島神社に詣で、朝日鳥居の先に居を構えることにして戻り、二つの鳥居が重なる山の稜線に立ち、その先にある窪地に居を構えることにした。この場所が字「奥別当」である。

奥別当はあっても、字表別当も字別当も無いのは、其所が奥すなわち巴と別当の屋敷にほかならない。

日曜日, 7月 24, 2016

国府の時系列考察(その2)

騎馬隊の育成、天皇家が科野に来た主な理由。

そもそも、天皇家とは越の国が北の騎馬民族に襲われて、東の海に逃れた倭の民(コメを作る戦わないヒトに意味)が日本にたどり着き、コレまた戦わなかった縄文人とうまく交わって、弥生文化を花咲かせて、屯田兵による岩盤から引く水路の開設と条理の田んぼに依って、日本全国に稲作を伝えていくのです。

条理が完成したら屯田兵を駐留させて、農民として租庸調の年貢を課し、租は天皇家に、庸は息子を次なる屯田兵に、調はその食料を親に出させる。雇用ではなく兵役としたところに、古代資本主義の素晴らしさがある。天皇家が永久に栄える礎がここにあった。

しかし、朝鮮半島から騎馬民族が海を渡って戦(いくさ)を伝えてきて、天皇家に取って代わる野党が育つ気配を察し、越の時の轍を踏まない決意から、天皇家が騎馬隊を持つことにより、優位性を保つべく、秘密裏に騎馬の育成を目論んで、シナノに目をつけたのだろう。

六ヶ村堰を開き、上の条中之条下之条の条理を完成させたスサノウ。主は須波氏。

新田の長を「他田氏」。(おさだ)
馬の飼い手、乗り手を「手使い」その民を「手塚氏」。
ヤジリに代わる武器の弓矢槍を鉄で創る「金刺氏」。
全て諏訪氏の一族の起源に合致する。

手塚氏は、美ヶ原を制する「餘部氏」の力を借りて、騎馬の調教強化を美ヶ原の台上で行い、その存在を伏せると同時に、現諏訪方面にも進出して、信州一帯を牧として、佐久や伊那や木曽に進出いくのです。

義仲も木曽から騎馬の訓練に、手塚氏を頼ってきて、今井兼平や手塚太郎光盛と知り合って、信頼おける仲間を得て上田での挙兵に及ぶのでした。

国府の時系列考察(その1)

シナノは、2万年以上前から武器の供給基地だった。星糞峠(長和町鷹山)すなわち霧ヶ峰である。
その邑は鉄が普及されるまで武器庫だったことがうかがわれるので、弥生時代に入り条理の田んぼが作られた頃は古代資本主義、すなわち兵隊が田んぼを造成してそこに入植させ、年貢を徴収するする仕組みによって、郷氏が形成されたとすると、鷹山のそれは記録によると餘部氏。

場所は武石村余里集落、当時は峠や山道のほうが便利だったので、和田の山道を上田側に抜けるには、余里峠道が直線で便利。

鎌倉時代に武石に地頭が城を構えたのも、餘部氏の勢力が保たれていた証。

ヤマトタケルが東方を旅しているが、武石に寄っている記録がある。

そこで見聞きした地形などにより、上田に武器庫を作る案を立て、弟をここに派遣した。素戔嗚尊である。

州羽の海すなわち、科野国分寺の前に広がる千曲川のダム湖。新幹線の橋脚、六ヶ村堰のダム湖の下流100mほどは、礫岩の層の露出帯で、千曲川に堤防のない古代は、この礫岩層が堤防の高さ位あって、小牧から国分まで層をなしていて、その上流は海になっていた。

諏訪湖は火口なので、礫岩が流れに侵食されて通過できないような場所はできない。
小牧のソレが、まさに州羽の海である。

古事記は追い詰めたことになっているが、それはカモフラージュで、東方に騎馬軍の養成所を創ることが目的だったと考えています。

小牧は尾野山も含めて御牧(おまき)。古代には全て原生林で、原野は氾濫原しか無かったはず。
山頂付近に火を掛けると上だけ燃え、その材木を木立に結わえれば牧場。

小牧山に登れば、千曲川のせき止め湖から疎水を引いて、下之条まで米の里が作れることを、弟に教えられる。

条理の開拓兵には、千曲川の魚、不足の食料は都から古安曽に運ぶ支援が必要。

安曽は阿蘇、庵蘇、庵噌。コメと味噌とお酒を三蘇。
醸造に適した水のでた所が泉で御泉、小泉大日堂はお酒の醸造所。
参道の向かう先は、古安曽神社。
はじめに安曽に住んで、コメと味噌をつくり、酒の適地を見つけて小泉に、大日さまは酒の神様。兄の応援の証ヤマトタケルを祀る、小泉大日堂。


さて、疎水を引いて最初の住まいが、小牧の山の手に旧大神宮跡地。
はじめにスサノウ(建五百建命)が住んだ地。疎水を見守るようにひっそりと佇む場所にある。

その後国府に移り、御屋敷は諏訪形字「雲雀」隣に池がほしいと思ったら、そこは字「池田」、その前が国府で字「久保田」その前が字「広道」国府の参道で、その前が東山道の曲がり角。東山道を直進して参道を通り国府に、地元の者は迂回して東へが理解できる。

お屋敷の日参のお参りは、荒神宮すなわち皇神宮、新しい科野大宮社は、旧宮からお屋敷、90度曲がって旧宮から60度の交点に、新宮科野大宮を創る。

古事記にはスサノウが州羽と名乗るとある。
平安時代には「須波」がこの地方の氏、須波のお館=諏訪形。
諏訪形から冬至の日没の線を追って、まず須川の山に登る。
翌日の日没の線上に生島足島神社を造る。

生島足島神社と小泉大日堂と科野大宮社が正三角形になる位置に生島足島神社をつくったのです。

ちなみに生島様から冬至の夕日の方角に手塚の八幡宮、夏至の朝日の方角に手塚別当と巴が住んだ名残の地名、諏訪形字「奥別当」がある。
木曾殿の話は後日。

当時の都に馬を運んでも、今の戦闘機。パイロットと整備士が必要。騎手と馬子を養成する仕組みが美ヶ原。ここはもともと兵器庫なので、軍馬の養成、騎手の養成に餘部の手を借りた。

ミススカル信濃のみすずとは、箕の竹のこと、古代の鎧の材料になる。ミスズは武石の奥山に自生しています。

武石の我が家から上は、築地(駒の集めた処)大布施(これから峠に向かう最後の宿)巣栗(スグリ=村長)があって、鍛冶横沢もあり。
東山道の馬の峠道だった。松本側に厩なる地名もある。

そこを上り、美ヶ原の有り様もまた、古代の牧場と思わねば、平原になっている意味が不明。原生林が突然開けて原になっているので、火を掛けて焼いてそうした跡であり、黒曜のヤジリ産業がハイテクの馬の育成に衣替えをさせて、既存の勢力との平衡を保った。それが餘部氏。

2000mでの調教は功を奏して、科野の騎馬兵は屈強だったことが伺え、その後の佐久の望月や御牧に発展したのではないかと考えています。

国府は御所に有ったの説

上田市御所自治会(大谷敏男自治会長)はこのほど、本年度2回目の自治会教養講座を御所公民会で開催した。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000398265.html

御所自治会では、わがまち魅力 アップ応援事業の自治会を対象 とした、個性あるふるさとづく り事業の採択を受け、「地名の由 来と地域の歴史遺産を活かした 魅力あるふるさとづくり事業」 を行っています。昨年度は、公 会堂の前に「御所区史跡めぐり」 看板を設置。今年は、史跡ごと に説明版の設置を予定していま す。また、昨年9月13日には、 東信史学会会員の金沢道弘さん を講師に、自治会教養講座「信 濃国府は御所にあった」を開催。 約70人が参加し地名由来の新 説について熱心に講演を聞きま した
http://www.city.ueda.nagano.jp/hisho/shise/meyoshimin/documents/20121225194314268.pdf

諏訪形の御仁に贈る

シナノの歴史探訪。シナノを早急に信濃と考えてはいけません。
シナノは始め科野、「科野大宮社」科野を掲げて存在するお宮は、上田にしかない。
科野大宮の社宮殿は、町の区画に逆らってひとり南東を向いています。その先を測量すると、小牧の山裾に「大神宮跡宮」の参道と平坦な宮跡があります。

古事記の科野国の州羽の海が小牧地積だとすると、そこに留まった建御名方神の最初の住まいがこの地。
タケミナカタは、『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った[2]。建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして投げ飛ばした。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという[2]。以上諏訪神社の由来よりコピー

平安時代に諏訪氏を名乗る豪族は、小県の須波氏のみ

勅旨牧(ちょくしまき)は、古代日本において、天皇勅旨により開発された牧場であり、馬寮などが用いる軍馬などの供給源とされた。御牧(みまき)とも。官牧には、ほかに諸国牧近都牧が存在した。

概要[編集]

日本では古墳時代に古墳の副葬品として馬具が見られることからこの頃に乗馬文化が導入され、軍事的利用される馬の育成は日本列島の各地へ広まり、特に東国において分布が拡大する。ヤマト王権では推古朝の頃には馬を管理する官職が存在しており、畿内の有力豪族により馬産が行われていた。地方においても在地首長による乗用馬の生産が行われ、律令制下には中央への貢馬が行われるようになった。
勅旨牧は、奈良時代後期に牧の管理を請け負ってきた兵部省から分離独立する形で、新たに設定されるようになったと考えられている。この時期には令制国やそこに設置された御厩)からのの貢馬が滞りがちとなり、更に太政官において軍権を握った最高責任者の藤原仲麻呂が乱を起こす(恵美押勝の乱)など、天皇を守るための直轄の軍備の必要性が唱えられた時期であった。このために当初は天皇直属の厩を管理していた内厩寮の下に置かれていた。
延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐穂坂牧真衣野牧柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵石川牧小川牧由比牧立野牧の4ヶ所)の計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所(阿久原牧小野牧)が増設されている。なお、追加された2牧は宇多院陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に何らかの関与したとする見方もある。
これらの牧は各令制国毎に牧監(もくげん)が設置され(ただし、武蔵のみは各牧単位で別当が設置)、在庁官人が中央官庁より一定の任期を持って任命されて馬寮及び兵部省によって勤怠状況が監督されていたと考えられている。
毎年8月には勅旨牧から中央に貢馬牽進の儀式である駒牽が行われ、毎年240疋(甲斐60疋・信濃80疋・上野50疋・武蔵50疋、なお武蔵2牧増加後は60疋が追加されて110疋となり、毎年総計300頭となる)が朝廷に献上されて、平安京周辺に馬寮が設定した「飼養牧(しようまき)」に預けられて公務の必要に応じて利用された他、公卿近衛府などに下賜される場合もあった。
天慶の乱などによる軍事的緊張が高まった10世紀前半に一番の充実が図られたと言われているが、その後衰微した。ただし、その後も馬寮の荘園や牧場として鎌倉期まで残された他、牧監や別当を務めた在庁官人の中には武士として成長する者もあり、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏末流には信濃小領主から近世大名化した真田氏がいる。また信濃十六牧の筆頭とされる「望月の牧」を支配した望月氏の支流は、飼養牧のあった甲賀の地で甲賀五十三家甲賀流忍者)筆頭の近江望月氏となる。

火曜日, 7月 19, 2016

グローバル経済が破綻に向かっている

英国のEU離脱、アメリカのサンダース氏やトランプ氏の支持、参議院選挙の真の支持率。
そして、中東の反乱。

この持つ意味は、グローバル経済によって経済界が大きく発展することと大多数の庶民の生活が天秤にかけられていて、経済が発展すればするほど民の生活が苦しくなることが、少なくない庶民にまで判ってしまいかけている。

世界の100名に満たない大金持ちが富の半分上を独占していて、更にそれを加速させようとしているのが、EUであり、アメリカの政府であり、日本の政府であり、TPPを目論む勢力であること。が大多数の側にも解りかけている。

ことごとく政治家は、その百名に満たない大金持ちの手下にすぎず、嘘を並べて自国民を騙している存在なので、もはや現体制を維持することが大多数の貧乏人にとってなんの意味ももたないこと。が少なくない人々の共通の理解になってきている。

日本では選挙などで政権を変えてみても、世界の100人に満たないお金持ちがより豊かになる仕組みが、小出しされるか促進するかだけの違いで、やはり100人に満たないお金持ちとその手下以外の貧乏人にとっては、何の恩恵もないことが段々と明らかになりつつある。

EUにみんなで寄っても数十名しか栄えないのであれば、離脱して、厳しいながらもそれぞれが生きられる道を探したほうが良いではないか。流石、英国の矜持。



ここは日本、私たち庶民派はどうしたら良いのだろうか?

サラリーマンとして、グローバル経済の片棒を担ぐ手下達に隷属する立場を選び、己もその100名弱の仲間入りを目指す。

はたまた自給自足の農業により生活の足場を固め、経済的にも精神的にも独立するべく準備に入る。

医療費負担の桎梏からの脱却を目指して、医者にかからなくても済む健康なからだを得るために生命の仕組みを学び、自然の恩恵の上に動植物の生命活動があることを知り、酵素の活性化を阻害する化学物質を口から入れない工夫をして、酵素がとりなす自然児になって、まずはじめに健やかなからだと精神を得る。

医者に掛かれなくて死んだとしても、掛かって死ぬのとどれほどの違いがあるのだろうか。
癌と見立てて貰ってベッドで死ぬ。癌だと知らずに畑で死ぬ。お金が沢山あればベットでの長さも買えるのかと思ったら、ジョブズさんが買えないこと教えてくれました。


なにものからも自由になると見えてくるものがあり、囁く自然に耳を傾けることができると、自然の中で生きることの意味が判ってくる。ワタシはこれを天命と感じています。

天命とは、己の生きてきた軌跡によって導かれる、自然界において己が理解できたこと、やりたいと欲したこと、するべきこと。などが時というか不思議な力によって導かれて、できるようになって動き出せる。

ワタシの場合、天命は気まぐれでひとつではなく、事業であったり地域のなりたちであったりしている。

事業はさておき、地域の成り立ちに触れてみたい。

シナノの場合、ワタシのふる里は餘部(あまりべ)にある。そこは古代では鏃(やじり)で有名な黒曜石の産地であり、2万年くらい、武器経済の中心地であった。呼称は不明であるが日本中のヤジリの発掘によってその存在は明らかである。上田市武石に「余里」なる所があり、其所は和田と武石ともに霧ヶ峰美ヶ原の麓の重要な位置にあり、餘部の名残として申し分ない。


その後、ヤマトタケルやスサノウと呼ばれる戦人(いくさびと)が下って馬の里を開いた。それが古事記で洲羽の海として出てくる平安時代の須波氏と餘部の関係になって科野国を作ったのです。

上田市諏訪形、小牧、御所、原なる地名は、須波氏の駒の証、洲羽の海から水を引いて上の条中之条下之条なる条理田により科野の礎をつくり、科野大宮、科野国分寺から科野国府も紐解けます。

餘部氏はヤジリの里を支配していた高地の戦の商人の末裔。
2000mの高地での騎馬の鍛錬は偶然だったが 他を凌駕する産業に育っていき、佐久に開いて望月の駒に連なり、科野が駒の里としての地位を確立していく。

「みすずかる科野」のみすずとは、ヤジリが付く矢の竹、箕の竹(細竹をすずとも呼びます)を刈る、みすず刈る。いにしえの武具は細竹製でもあった事が考えられ、武具の産業も育っていたはず。

時は移り、義仲が丸子より兵を挙げた。科野の騎手を引き連れてのこと。
駒だけでは戦はできず、騎兵、手綱持ち、馬養人、弓矢と槍使い、武具のつくり手を金刺氏、手綱びとを(手使い)手塚氏、米つくりの長をオサダ他田氏それぞれ、科野を代表する舎人として記録にある。

義仲は敗れるも巴と手塚別当が戻り、義仲の遺志・兄今井兼平の遺志・おじ手塚太郎光盛の遺志を次ぐ子を産み、生家の須波改め諏訪氏を生んで、中世の信濃に広がっていったとワタシは想像しています。

そして、高原における牧馬は菅平や嬬恋の里でも盛んになり、高所で鍛えた信濃の駒と人馬一体に訓練された騎兵が戦場では重宝されて、ここでも真田氏が台頭する要因となっているのでなかろうか。

2000m高原で育成すれば、これから馬も良いかもしれない。


乱世であっても、時が必要とする産物を新しく供給しすれば、生き方が定まるらしい。

100名も居ない天下人にならずとも、時が欲する新しき産物を見据えることにより、しばらくは食い繋いで行くことができるやもしれず。これすなわち天命なのか。

金曜日, 7月 15, 2016

悟りと新しい世界と人生。

いま、ここに居る自分自身の存在。

願っていること、考えていること、やろうとしていること。
家族・友人・同僚・生きている土地・周りの環境があって、私が居る。

そいつを、全てひっくるめて、受け入れる。

邪な心の自分・清く生きようとしている自分・悩んでいる自分。欲深い自分、全て過去の自分だ。

そういうことを、まず全部、肯定して受け止める。


新しい自分になれるよう、学び・考え・行動をはじめ、それを諦めずに続ける決心をする。

うまく行かなかったら、考えて新しいこと勉強して、考えて修正して、行動を続ける。

その考えは、できれば誰かのためだったり、人類のためだったりしている方が、挑戦のしがいがある。

最初は暗いトンネルだが、やがて遠くの方に明かりがあることが判ってくる。

そんなことを数年続けていると、ある日突然霧が晴れて、景色が見えてくるようになる。

ソレが希望だと思う。

新しいことを始めるに歳なんて関係ない。20歳でも70歳でも90歳でも同じこと。

生きている限り、希望に向かって生き続けて、ある日突然ヒトは死ぬんだ。

それが人生なのかと。

木曜日, 7月 14, 2016

閑話休題「地方創生」噴飯・けだし真実

「地方創生」を権力の中枢が叫ぶ。

噴飯である。

地方とは、権力から遠ざかっている地域を指す。

己から生きる処方を探しだし活性化する。それが創生。
地方自らがそれを唱えるなら理解ができる。日本人も捨てたものではない。と思えます。

そうではなく、権力がそれを口にする。バカか。

「権力実行」でなければならないところを、

「なるべく権力から遠ざかれ、さすれば生きられる。」
そう言い切ったところに噴飯はあるが、されど真実なのです。

「自律躬行」 己でルールを作って、その決まりに従って己を縛り、糺す。
言うは易し、されど実行は困難だが、貧しき身をバネにして行動に移す。

自律躬行によって「地方創生」を為す。地方人自らが謂うのが正解。

とにかく、なにかやってみる。
おいおい、わかんねえから困ってるんじゃんか。

ワタシは、安全がキーワードだと思っています。

「交通安全」、工事の「安全第一」、「食の安全」「健康第一」等々に向けて、

「本当に安全なの?」と、検証をしてみる。危険なところを探して対策を練ると、
必ず、案が見つかる。まずそいつを実行してみる。

そうすると、困難が発生する。そいつを改善する。面倒くさい。そこも工夫してみる。

その秘訣が「自律躬行」だ、自分が言い出したことなので、諦めずに続ける。
そのうち、代案だの妙案だのが浮かぶ、すぐさま実行に移していく。

「地方」には、ヒトを頼らない。っていう意味も含まれてる。己の力をしんじてやりぬくのだ。

「石の上にも三年」そんなことを数年続けていると、誰よりも元気になって、
「安全」が自分のものになって、そいつが「売り」になっていく。

そのプロセスが「地方創生」。一人で悩んでないで、仲間を探そう。話しかけてみよう。

水曜日, 7月 13, 2016

貧乏人が身を守るコツ

お金持ちや高額所得者なる勝ち組は、信頼のおける医師を頼って身を護る術を手に入れることができます。

では、貧乏人はどうすればよいか?
やがて医療費も貧乏人には高嶺の花いなる時代が訪れるやもしれない。

畑を借りて、自分で山から枯れ葉や草を刈ってきて鋤き込み、それだけで野菜を植え付ける。 種は自取りして年ごとに環境に慣らしていくと、自然豊かな野菜が採れるようになる。

極力、山野に自生している野草などを栽培するように心がけ、成長の旺盛なスギナだのモグサなどを晴天の日に採取し、日陰干しにして煎じて呑めば、病も逃げ出す長生きの秘訣なのだ。

春には、蕗の薹・タラの芽・ウドなどの新芽がこれまた栄養の源で、蕗の薹や山ウドは栽培すれば3月から、山に入れば夏の陽気の頃まで、筍は、環境を整えてやればひと月の上楽しめます。

それぞれ気分次第で、贅沢な食卓を演出することができます。

なんといっても、主食は自然栽培の玄米。100坪あれば素人でも夫婦が食べる分は育てられます。200坪あればお友達に譲ってあげられるほど収穫が可能です。

一日2食の玄米食は若返ること請け合いで、8掛け7掛けの年齢が可能であり、高血圧も数週間でおさらば快便は痔にも効果的で、ソコに前後した機能も活性化して、夫妻に新しい春も約束してくれる程です。

医療費の配分を心配するゆとりが有るのなら、自給自足農や山野の採取で健康を取り戻すほうが何倍も豊かな人生が送れます。

充分な癌治療を保証してもらうより、入院の心配のない人生に勝機があります。
もし癌を告知されたなら、断食や糖分のカットで克服する智慧や対応を、元気なうちに勉強して自分のものにすることが、長生きの秘訣だと思います。

いのちを守るには

政治家や国家にいのちを盗られる恐れを心配する前に、医者にいのちを預ける愚挙について。

医者は、人々が健康になることを仕事としていません。

怪我の時を除いて、病院に行くのは「病気になったり元気でなくなった」時ですので、そもそも「元気になりたい」という理由で医者にかかるヒトは居ません。

もうお解りでしょうが、医者にかかる時は手遅れなのです。医者にかからないで済む方策を考えなければなりません。

農薬や殺虫剤を撒いた野菜やお米を食べると、病気になります。
実は農薬や殺虫剤は僅かな量で、化学肥料のほうが格段に目方が多く畑や田んぼに撒かれています。

つまり、農家が育てた野菜やお米を食べることが、健康を害する一里塚なのです。

また、食品を加工する時に使う、添加剤や防腐剤なども、菌を殺したりする作用や、ホルモンのバランスを狂わせる化学物質で出来ていますので、長く自然の中で生きてきた人類にとって、化学物質とのお付き合いは、本当につい100年くらい最近の出来事なので、3代や4代の遺伝では遺伝子が対応できておらず、やはり癌や腫瘍の病気に原因になる恐れが多く、健康を害する元になっているでしょう。

最近、テレビで宣伝されている柔軟剤や香りの洗剤だとか、消臭剤の類の化学薬品もまた、脳や神経のさわりになって、キレたりする人々を作り出しています。

塩が高血圧の原因のように囁かれていますが、酵素を支援するミネラル的には海水塩は不可欠で、酵素の働きを考えると、甘い砂糖菓子や白米や精製小麦だけで食べる食事、ブドウ糖に相対する酵素を摂取しない食事が、血中の糖分を増加せしめて、医者をして薬を投与したい身体を作っているのです。

つまり、生命の危険を増加せしめているのは、ABの為政者だけでなく、医者に殺されると嘆くまでもなく、危険なところに己を誘いこんでいる、消費者自身なのです。


ワタシは、自分で苦労して自然田で米を作り、ソレを玄米で食べ。
やはり草取りに苦労して自然の大豆を栽培して、自分で糀を出して、海の塩を求めて「まいみその」の味噌汁を吸い。
何も入れない畑の芋や玉ねぎ・ネギを得て、トマトきゅーりナスを作ってもらって、己の粕や小糠を使った漬物を食べることで、貧しいながらも医者に向かわずに済む生活を、選びとっています。


自分を全く知らない為政者に、苦労して勝ち取ったわけでもない、誰でもが義務などと謂うわずか一票を投じただけで、何か望むことがいかに無駄骨か。

為政者に厳しいことを望む前に、まず己の人生を全うすべく、食のところから、身の回りのところから、己の身を処するところから始めようではありませんか。

政治家に期待することのほんとうの意味

直下の 坂の上 零 さんの投稿
わかりきっていたこと。最初から茶番劇だと。(以下省略)

コメントに共感できましたので、シェアしました。

選挙や政治については、民主主義の幼稚園である、国民の多数決を集結する如くの、まやかしであり、他に民主的な手法は見つからないので、これが現状での優れた到達点でもあり、悲しみの到達点なのです。

為政者が民にとって正しい政を進めるには、優れた頭脳で苦難の体験を積み、酸いも甘いも噛み分け、何が集団に必要なのか?を探りだして提案し、優れた批判者によって批判を受け選び出された政策を、柔軟に執行して、大多数の民を心も身体も豊かに導く。

こんな「神の如くの思想と実践」を持った複数の指導者によって、政は行われるべきであろう。

まず、その方々を選び出さねばならない。


できっこない。そんなヒト居ない。もし居ても5%のヒトが嗅ぎ分け、その影響で5%が支持する。
世の中は、ひとつの考えでは動かないので、必ず反対側に同じ数の方々がいらっしゃる。で正否20%、あとの80%は、「何もわからない。考えない。あるいは正否が理解できない。」人々によって構成されている。

そこで、ロシアや中国のように、優れたカリスマ指導者が現れて人々を導く仕組みを作ると、ある時期国民は豊かさを享受できる。こともある。

また、いっとき優れた反動の指導者が現れて、クーデターなどが起きて平和が構築されたりするが、やはり内外に反対者が現れて、混沌に突き進むようになってしまう。


では私たちは、どうすればいいか?
ひとつの答を、坂の上の雲さんは語っておいでです。

三宅洋平さんの演説は聞いてないので、なんとも言えないですが、同じような観点からお話されているのでしょう。

民が政治に期待しても、見返りとして戻ってくる仕組みを、まだ人類は手にしていないのではないか。
それは、木に登って魚を得ようというくらい、難しいことではないかと思います。

なぜなら、そんな奇特な政治家がおられたとしても、多分お一人かおふたり。その方に政を付託する。すなわち自分の人生を丸投げするくらいの蛮勇を、50%以上の国民に持っていただかないと、ソレが実現できないわけですので、やはり砂上の楼閣なのです。

すなわち、「政治のお付き合いは選挙の時だけ」と心がけ、選挙が終わったら「自分の生活は自分で守る。」ことに徹することではないかなと考えています。

金曜日, 7月 08, 2016

万年筆のインク

モンブランはインクが新しくなってMIDNIGHT BLUEになり、古いインキ壺にはパイロットのブラックを入れて使っていました。
これからは、パイロットの「山栗」を使います。
乱雑の机の上が少し華やかに、そして落ち着いて、日本は日本の情緒に染まります


火曜日, 7月 05, 2016

独り立ち

一人で生きるコツ。
自動車の運転と同じ、瞬時に道を決めてハンドルを切る。
迷ったら、オシマイ。事故っちゃう。
どんな重要な事も、瞬時。一発で決める。迷ったら難しい方へ瞬時。
迷うってことは、心の奥底で決まってる。だけど、簡単の方にかなりの誘惑がある。負ける人が多い。
一人で生きるには、負けたら奴隷。
己の心の奥底を信じること。
これが重要。そして、すぐに必ず実行に移すこと。
これが、隣人との相違点になって、必ず大きく効いてくる。
誰かの指針になったかなあ。

選挙には野党に投じて、与党には近づかない。
ナゼか、己がタカリ体質になる。何もいいことはない。
己の人生は、己自身で切り開く以外に、術はないと心得るべし。
タカリ体質になると、心が犬になる。
昔、我町のオサが政に自信がなかったのか、議員を説得する手段に、国の補助金なる言葉を利用した。
この文言があると議会の通りが宜しいと、優秀な職員を使い、国の制度を研究して予算獲得に励み、ほとんどの政策が国とのドッキングになった。
かなり民主的な方だったが、いつの間にか、誰にでも手を出すようになった。
何も考えずにワタシにまで「オクレ。」って、手を出して来た。
結局、彼は町を売り、今ではわが町は、見る影もない。
ワタシはそれを見て、「独り立ち」を改めて心に誓った。

ヒトに使われる時代は、もうじき終わりを告げるらしい

ヒトは売り手と買い手に分かれる。
買い手になると、お金を失うので、売り手になること。
でも、身体とか己の時間売ったらおしまい。奴隷もサラリーマンもそうは変わらないような気がします。
何売るか?
価値。
モノじゃあない,
味かもね。旨味。有難味だったり、醍醐味だったり、スリルだったり。
戦後の活力も、売るところから始まってる。
古代も同じ。
商人は、古代に滅びた「商国」のヒトが、国外に出て危険な商いをした。そんなやり方を商人と呼ぶらしい。さもありなん。
言葉も心も通じない。倫理もない時代に、継続して価値を売る以外に、生きるすべがなかった。そう思うと「商」(あきない)の意味が見えてくる。

人生は糾える荒縄の如し

夕べは、思いっ切り自慢話を書きましたが、
自由業とは、誰もワタシラ家族の生活を心配してくれない。ことなのです。

26歳の時スピンアウトして、転職一年後に会社の社長が夜逃げして、手伝ったのが災いして失業してからずーっと40年間、自分の生活は自分で切り開いてきました。

時々、「仕事が来なかったら、明日からは浮浪者かしら?どうなるのだろう。」という、不安を心のどこかに潜めながら生きてきました。
土地家屋調査士として独立して数年は、結果として、子供の教育には目が行かないほど、ひたすらにがむしゃらに生きていたのだと思います。

しばらく、不安のない自分勝手な、所謂自由業をやってました。
全ては、地域のお客様のご親切のおかげで生きてきてのに、罰当たりだったのかもしれません。

10年前、実家に戻って百姓を継ぎまして、大きな投資を行っています。
農家としての稼ぎは雀の涙で、収支は全くとれていませんが、借りた他人の田んぼを、自然豊かな良い田に改田すること。
自然栽培米の方法を実験して、失敗から成功の方程式を導き出すことが、バランスシート上の投資を資産に代える効果を生んでいます。

田んぼの不陸を直すこと。掛けた手間と軽油代が、田んぼの雑草を未来永劫生えなくしてくれますので、投資効果は自然田というおまけも呼んでくれて、自然米は健康と美味しさの競争力になって返ってきます。


田んぼの土手にびっしりと生えてくる畦草の力強さを、草はどのようにして生命を取り込んだのか?と考察してググッたり本を買って読むと、学校では絶対教えてくれなかった斬新な知識に溢れて解明が出来、植物の持つ生命の奇跡に感動します。

生命の起源。動物と植物の違い。輪廻転生のほんとうの意味。ALA。.酵素。糖化の意味。生命化学。自然科学。病気の克服。経済。シュンペーター。イノベーション。日本酒の醸造。ワインの科学。売り方。生き方。

自然の営みにふれる。学び、自分で実験を繰り返す。どんなラボより研究室だ。と、心底思います。

すべて、「自分の食べるものは自分で創りだす。」
ただ作るのではなく、

「自然の理論に従って創りだす。」ことを知る。このことが今までと違いました。

全てから自由になる第一歩だと思います。

月曜日, 7月 04, 2016

ワタシも気づいた。素晴らしい世界に。