無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

火曜日, 8月 30, 2011

ほおずきも無農薬で元気

 ほうずきも、元気に育っています。
8月1日頃から花が咲き始めて、根元から毎日ひとつずつ、枝分かれしていきますので、毎日その数が増えていきます。

 株間を3メートル位空けて、風通しと日当たりを狙いました。
化学肥料は使わず、腐植による肥やしだけで育てていますが、標高が200m位低地に、同じように食用ホウズキを育てて居る方が見えますが、当方が数段大きな株になっています。株間が空いていることがミソだろうと思います。

 それでも、もう少し経てば、出入りも難しくなるほどの元気には驚かされます。
むろん無農薬ですし、一体何を散布したらよいかも知らないし、まずその必要性を感じません。

 帰農6年目にして、今年は全て順調に推移して、「ようやく、農法に目途が付いた。」と感じています。

月曜日, 8月 29, 2011

無農薬の稲

 無農薬の稲作6年目にしてようやく、ひとびとにも認められるような作柄の稲になりました。
雨が続いて、受粉しないのでは?と気を揉みましたが、運良く天候にも恵まれて、穂が垂れ始めてきました。

 稲株はさほど分けつしてはいなく、やや細めの株の出来ですが、穂はご近所の稲より長く伸びていて、「これなら無農薬も良いか。」と言って頂けるような、手前味噌ですが立派に育っています。

 株元は、雑草に覆われていますが、「よし、これで無農薬に目途が付いた。」と思える出来映えです。

金曜日, 8月 26, 2011

いちごの苗取り

 イチゴの苗をポットに移す作業に取り掛かりました。
ランナーから太郎を置いて、次郎三郎の3葉の苗を、頃合いを見てフォークで掘り出し、ポットに移します。

 移植した苗は、一旦暗くした場所に置き、根が元気になったら、少しずつ明るいところに出すようにすると、全部が元気に着くのです。

木曜日, 8月 25, 2011

自然は素晴らしい

昨日、1日だけ晴天に恵まれました。
正確には、1昨日の午後からの2日の晴れ間でした。1昨日に穂の先に花が咲き、受粉の準備をしていました。昨日1日いっぱい受粉に忙しかったと思います。

 たった、40時間ほどの晴れ間でしたが、それに合わせて自然は準備して、開花してきた訳です。予測できるのだろうか?不思議でしたが、今朝には穂の先がかすかに垂れていましたので、無事受粉が出来たのだと思います。

 本当に驚きの瞬間でした。大自然に敬服です。

火曜日, 8月 23, 2011

明日は晴れ

稲穂が出て、花が咲き花粉がこぼれ始めています。明日晴れなければ今年は、凶作になるところです。
天気予報を信じて、お天気を待ちたいと思います。

農業は、将にお天気頼み、ですが、願うだけで自分は何もしなくても、勝手に稲が実を付けてくれるので、有り難い商売でもあります。
そういう訳で、お天道様宜しくお願い致します。

月曜日, 8月 22, 2011

野菜の裏側

 お客さまのご案内で、「野菜の裏側」(ナチュラル・ハーモニー代表の河名秀郎著)を読みました。
私は、肥料と農薬を使わない栽培をしているのですが、ご近所の農薬散布量が多いのは聞いていましたが、これほど多いとは知りませんでした。

 いちごは、通して10回もスギナ液を散布する位ですのに、60回もしてると知るとビックリです。
でも、苗取り農家の方が、24回やったと言うのを聞いていますので、あながち間違いではないでしょう。

 我が家でも子供の頃はやっていて、父は篤農家と言われていたようで、「病気になる前に手当てしないと、手遅れだ。」が口癖で、雨が降りそうになると、消毒していたことを思い出します。

 当時の農家にとっては、化学肥料と農薬は画期的で、これまで感じ得なかった豊かさを、運んでくれる神様のような存在だったと思いますので、その連続線の上にいる農家にとって、それを絶つことは不可能だと思います。

 私は、たまたま農業を継がなかったのと、折角、人生経験を積んでから始める農業ですので、意義有る手法を選ぼうと、独自に考えたり古典を学んだりした結果の帰農なので、ゼロからのスタートができたのが幸いしていると思います。

 これからも勉強して、からだに優しい農法を発見していこうと思っています。

金曜日, 8月 19, 2011

涼しくなって、シモン芋が元気に

繁殖力がすごいシモン芋

 朝方ひと雨あって、急に涼しくなりまして、如月ではないですが、一枚余計に羽織ってしまいました。
 シモン芋という、南米原産の薬草を作付けしています。
この葉を、みそ汁の具にして毎朝、数枚食べています。

 シモンは、寒くなって霜が降りそうになる前に、茎を全て刈り取って、日陰干しにして、それは煎じ薬、シモン茶として、毎日1リットル位飲んでいます。
 芋は、芋乾しにしておいて、レンジで暖めて、時々おやつ代わりに食べています。

 私は特に何処も悪くないので、特効効果は見えませんが、いとこや友人は、糖尿病で治療中でしたが、これを飲むようになって、数値が改良したとかで、とても喜ばれており、苗をお分けして栽培もされています。

 この元は、ご近所の一人暮らしのおじさんが、白血病にかかり医者に見放されて、シモンを知り、飲用したら元気になって、もう数年ぴんぴんしています。

 ひと頃は、医者もこれを欲しがったという、優れものです。

 母が気に入って、栽培を始めたのですが、今年冬に米寿を向かえますが、お陰様でとても元気で、毎朝、私の朝飯の支度をしてくれています。

 シモンの効用はこちらのページにて

 でも夏の間は、煎じ薬もいたみやすいので、自宅では、朝煎じたらボトルにとって、冷蔵庫で冷やしておきます。
 武石での母は、スギナと半々にして煎じますと、1日はそのままでも飲めますので、2リットルくらい煎じておいて、お茶代わりに飲んでいます。

 全て無農薬での栽培ですが、玄米、スギナ茶、シモン茶、梅酢、無砂糖のおかげか、体脂肪率も10%台、シワも消えてきてだいぶ若返ることができています。

月曜日, 8月 15, 2011

終戦66年に思う

 本日、66回目の終戦記念日です。

 今年は、いつもに増して、「人の死を避けなければいけない」こと、平和、「ごく普通に、明日も生きられる幸せ」を、みんなで享受できる社会の建設を目指さなければいけない。

 ことを、みんなが、考える必要がある時だと、思いました。


 それには、自分ができることを探して、辛抱強く、それに挑戦することだと、思っています。

 昔、私は、それを他人に求める言動をしてきました。
その結果は、何も生まれることは無く、ただ敵を増やしただけのように考えています。
その反省をふまえ、これからの人生は、自分ができることを考え、ただ、それをするだけにしています。

 お盆に終戦になったのも、また、何かの巡り合わせと思っています。
私の人生のライバルは、友達でもなく同業者ででもないと思っています。
 真のライバルは、同じ遺伝子を生きてきた、父であり祖父、またそのご先祖様が、自分と全く同じDNAをもつ、ライバルであると考えています。

 その昔、私のライバル達は、何かの戦争によって、一生を気の休まる時が無く、生きざるを得なかった、しかし、妻をめとり子をもうけて、子孫を営々とつないできた結果に、今の私の存在がある。
 
 その人達、江戸期の300年は平和であったとしても、苦しい山里の農民であり、それらを鑑みると、私が一番恵まれた時代を生きています。

 息子のこれからを考えると、決して優しい時が待っている訳ではなく、結局、私の生きる時代が一番恵まれている事に気づきます。

丁度、数珠のように、ひとつ一つの珠が、小さいのもあれば、ごつごつしたのもあり、大きいのもあって、透明なのや輝いたのも、そういうご先祖の人生が累々と繋がっている事を、考えるのがお盆、私は、余生をせめて丸く透き通らせて、長生きしてそれを大きく膨らませようと、考えています。



 従って、せめて、自分にできることをして、世の中をもっと優しく、もっと安全にする事が、私の務めだと気が付いた次第です。


 私にできることは、『 脱石油と安全な食糧の生産に対し、それを継続して生きて行かれる仕組みを作り出すこと 』だと、かんがえています。

 脱石油については、化学肥料を使わない、化学農薬を使わないが、到達点です。
今年は、ジャム冷蔵庫の省電を進めて、ゼロに近い省エネルギーを目指します。

 安全な食糧作りは、ジャムとお米と自家野菜での無農薬が完了しました。
が、それだけでは、食糧の50%を越える種で無農薬生産できないと、お客さまの満足度の50%を越えられません。

 まず、私が生産する物の内、私自身が口にする食糧の50%以上を、無農薬にすることに取り組もうと、決心しました。

 そのことに真剣に取り組むことが、東北の震災や福島の皆さまに、どのようなお力添えになるかは、想いも及びませんが、今私にできることを精一杯する事が、平和に通ずると信じて、今日を生きる事と致します。

 ありがとうございました。

金曜日, 8月 12, 2011

初、出穂

 無農薬の水田に、穂がでました。これまでにない大きさの穂の出にしばし感動でした。

無農薬の極意は、化学肥料を使わないこと、自然の力に任せること、風の通りを良くすることのようです。
風の通りを良くすることは、日当たりを充分にすることに通じます。
日当たりと風当たりは、同じ環境ではじめて成り立ち、感覚的には相反する事象ですが、表裏一体の事象なのです。

 風当たりを避けていては、何も前に進みません。

 政治もまた似ていて、風をまともに喰らう気概がないと、声もかき消されてしまいます。
脱原発は、たいへん結構な選択なので、将に日本が取り組むべき課題です。

 それを実現するには、経済界や地方自治体に対して、既存の技術、既存の財産を使って、エネルギーを確保する努力を、「 1日も早く真摯にお願いする。 」 ことでないでしょうか。
 
 そして、「 それの実現に至る軋轢には、立法や予算建てにて、速やかに対処する姿勢を見せる。 」 事だと思います。

 次ぎに、新しい技術を持って、新エネルギーの確保を目指し、前項と同じ対処をするべきです。

 その後に、「 それでも、どれだけ足りないので、暫くは原発を、。 」  というような取り組みが欲しいと思います。

 とりあえず、私達は何ができるか?
 上記への取り組みは不可能なので、節電と、電気に換えない省エネに取り組むことが、できることに気づきました。

 今使っている冷蔵庫のセンサー、機械式で6度付近の設定でしたが、新しく松尾電器産業さんに、サーモスタットを注文して、15度ON8.5度OFFとして、常時13度付近に納めることに成功しました。

 だいぶ、エコに貢献できたようです。

 今後は、すぐ隣を流れている冷水を使って、水冷式冷蔵庫に改造しようと考えています。
それには、ポンプの電気代だけになり、いつかは自然流下式にすれば、完全エコが達成できますので、楽しみに計画していこうと思います。

日曜日, 8月 07, 2011

お墓そうじ

緑のカーテン
 ようやく夏らしくなってきましたが、丸子でも朝晩は結構冷えて、過ごしやすくなっています。

 お盆前に、お墓の掃除を致しました。お墓の廻りの農地は、家の土地ではないのですが、草が茂っていますので、そこも草刈りを行います。
 廻りを少しきれいにして、お墓を水洗いしました。

 これで、おぼんさんの来るのを待ちます。
 夕立があって、そのあと西の空の夕焼けがきれいでした。

土曜日, 8月 06, 2011

鼎立成りて碩量を育む

イチゴの苗 ランナー付近、草取りしてきれいにしました

 昔、お世話になったお方が、ベリー園を訪ねてくれました。
お名前を、碩量さんとおっしゃいます。あまりに難しいお名前なので、調べてみましたら、碩は大きいと言う意味ですが、碩量には特別な意味がありました。

「鼎立成りて碩量を育む」が、ひとつの意味になります。
昔の中国で、国家を建立し国王となること、そのしるしとして「鼎」に例えるのだそうです。

 鼎は、三本足のある煮焚き用の鍋であり、青銅製のそれを国家の象徴としました。
国王の質は、知恵理論、行動実行力、民を重んじる心の三本からなり、それをバランス良く伸ばす努力が、「碩量を育む」となっている訳です。

 古の中国は、凄い方々の集合だと思います。生き方論の孔子、マーケティング才の孫子、それより遙か前、鼎を権力の象徴としたところにあります。

企業は誰のためにあるか?の答えがそこに読み取れます。

鼎立とは、起業する事にも通じます。
 株主と企業、社員、顧客の三者が鼎立してはじめて、企業が成り立ちます。
つまり、それをバランス良く伸ばす事が企業活動で、「碩量を育む」となる訳です。

 事故などがある度に、企業は誰のモノか?との問が為されますが、株主、働く人達、お客さまのそれぞれが、バランス良く利益を享受するように、三者が努力してそれにあたる。
 東電の事故もまた、株主、社員、受電者の三者が利益の享受と共に、責任の分担をして、地域社会に報いることが、求められているのだと思います。

 その様に考えると、政府の取るべき行動様式も、「立法」「行政」に加えて、国民をおもんばかる「信」をそれぞれバランス良く、伸ばす努力が必要なことが見えてきます。

 孔子、孫子と並んで、凄い言葉が「鼎立成りて碩量を育む」これですべての事業が、順調に運びますね。

 碩量を検索すると、桐蔭高校の母校学校法人大阪産業大学が出てきますが、素晴らしい学校であることが窺い知れます。

 私も、学生の頃に、この言葉に出会いたかった。

金曜日, 8月 05, 2011

太公望

 ホウズキが見えます。あとひと月です。
こんなに大きくなりました。

 ようやく暑さが戻ってきて、きのうから蝉が鳴いています。
それまで気づかなかったのですが、蝉も鳴かないお天気だったと言うことで、やはり異常気象なのでしょう。

 台風も大型で、不思議な動きをして、被害を大きくしているようです。地震、津波、原子災害に加えて水害、株安円高と、気の休まる時のない世情です。

 苦しみをみんなで共有して、乗り切りたいモノです。そんな、指導者の出現を切望致します。

木曜日, 8月 04, 2011

眞田幸村軍団 赤備えをジャムラベルに

上田市房山にある 「風林山 金昌寺」

 はるか昔400年以上も前のこと、我が家の敷地は、「風麟山 琴松寺」でありました。
眞田幸村の父、眞田昌幸が築城の際に、当地より城下へ寺を移したひとつであります。
琴松寺の松を昌幸から1字とって昌に、琴を金に替えて、金昌寺として建立されたのだそうです。

 その時に、当地に住んでいた皆さまは、こぞって城下に移り、空き家となった集落に、我が先祖が移り住んだのだそうです。
 で、当地の地名大字は本入村、上田市内には、常田の隣に常入と踏入がありますが、その起源は未調査です。
 海野町に対し東部町に本海野、原町に対し真田町に本原があり、新田には鎌原があり、群馬県嬬恋の鎌原村からの移住が窺えます。そんなんで、入村に本がついて江戸時代は本入村だったのではと、私は考えています。

 小字は小寺尾、多分「古寺」がなまってコデロ(古老はそう呼びます)からコデラオとなり、小寺尾となったのでしょう。

 それらの故事が、歴史から消えているのですが、もしかして、先祖さん達は、幸村と一緒に大阪城で戦って、お亡くなりになってしまわれた故かも知れません。
 で、そんな故事を記念して、「眞田赤備え」の旗印である「六文銭の赤旗」をジャムのラベルにデザインしてみました。

 どうか宜しくお願い致します。
 
 当家は、集落の中心にあり、その寺の墓裏に位置しています。その寺は江戸時代までは存在していたようで、家の前にあった昔の集会所は、お堂を改造したもので、その南に集めてある墓には、江戸期の和尚の墓が数基存在していたり、江戸の年号の入った踊り念仏供養塔が建てられています。

 今日金昌寺のご住職を訪ねてみましたが、お留守で奥方様にお話しをして、盆でも明けたら再びお訪ねしてみようと思っております。