無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

木曜日, 10月 26, 2017

モンゴリアン・史那の国物語を書いて

長野県人のルーツを探る歴史旅。
3分の1は縄文人
あとは、大陸からの渡来人。
ヒトの移動は全て、逃げてきた。
でも、どうしようもない逆境をバネにして、発展を掴んでいた。
最初のヒトは、ホモ・サピエンスに追われたネアンデルタール人らしい。
戦わないことをひたすら選んで、逃げおおせた稀有な、世界唯一の先人が祖先30%。

一方、中国大陸では、戦に負けて鍛鉄の奴隷だったモンゴル高原の突厥の民、500年から600年にかけて、流鏑馬と鍛鉄により、北の世界を支配する阿史那王の子孫。
やはり戦に負けて、戦いの技と鍛鉄を以って、大陸を渡り筑紫都督府に駐在し、阿蘇に新天地を求めるも、白村江の戦いに敗れ、帰る道を失い、史那の国造りを目指して、「科野国之州羽海」上田市小牧に渡来する。

 流鏑馬のできる騎馬兵と馬を、都に送ることで活路を見出すも、後ろ盾の天武天皇失脚して、販売先を貴族に変えしたたかに蘇り、信濃の国造りの要となって、長野県全体を発展させる。

 その時、協力したのが、洩矢神に代表される縄文人と、美濃から渡来した稲作弥生人と技を持った百済人。これで長野県人オールスター。

 主産業は騎馬兵の軍事産業だけど、残ったヒトは基本的に戦わずに、ヒトや技をやりくりして、販売先を器用に変えて、生き残って来ました。

 木曽義仲に加勢して敗戦後にも、一旦討伐されるものの、諏訪神社信仰など利用して、馬と兵の供給を上手にヤッて、生き返っています。

 真田氏も、イネのできない山家を逆手に取って、武具と騎馬兵を育て、赤備えの兵を売ることにより、したたかに戦国時代を生き抜けた。

 みな、逆境をバネに、国の歴史に影響を与える産業に育てています。
その先祖の選んだ生き様は、進軍しては負けているが、地元では戦わない方法を探して、掴み取っている。

 どうも、それがいいようだ。

 さて、いま、勝ち組はさておき、庶民は負け組になっているよう。
情勢判断すれば、まさに国民総勢が負け組になっている大ピンチ。
 信濃の歴史の倣いによれば、明日はチャンスの時らしい。

 信濃の歴史では、考えなくても解る敗戦だが、今をそこに置き換えた者が、明日の活路の発見者になれそう。

「いいじゃん。」「駄目ではない。」という方には、無縁なお話し。
 「駄目だ。」って、分かったやつにチャンスはある。

 さあ、どうだ。

天職と天命と長活き生き学校

 天職というのがあります。   私にとって土地家屋調査士です。  測量は独学で学びました。建設省の基準を学び、実践していますが、稼ぎの大半は、登記法の理解と現場への展開と、隣地を含めて地主さまへとの人的軋轢の解消です。  天命と謂うのがあります。   安全の食の普及です。 安全農業による食の安全を、だれでもが享受できる環境を構築することです。  「化学物質過敏症」これが私に頂いた体質で、病名ではありません。化学物質が血液内に入ったことを、過敏に反応する体質なので、化学物質がいかに毒なのかを勉強しました。  過敏なヒトは、すぐ反応するので、環境を選ぶことができ、良好な環境を得られれば、地域的な生きる範囲は狭められますが、もう安心です。  問題は、過敏でない方々です。一言で言えば鈍感なので、からだに悪いものをより多く摂ってしまい、結局2人にひとりは癌になるのです。  そうならないように、安全の食が分かる身体で、安全の食を提供するのを生涯の仕事にして、どこまでも実現を求めていきますが、抵抗が多いので、すべて己で切り開いていきます。  お金の面を助けてくれるのが土地家屋調査士なのです。  長活き生き学校 生活というのは、活き活きと生きることです。  長く活き生きできるようにみんなで勉強できる場所を創ろうと、行動を開始しました。  温故知新:故郷の起源に関する出来事を、誰がどうやって実現していったのかを考え、今の地域の復興に活かそうと、研究と提案をしています。  古事記の「科野国之州羽海」の故事、日本書紀に何故書かれなかったのか。そこから検証をはじめました。「モンゴリアン・史那の国物語」もう少しで完成です。

日曜日, 10月 22, 2017

信州のマチュピチュ

 


 686年、科野遷都は成らなかったが、天武天皇は確かに科野の須波の海戸にその場所を定めたのだ。
長いこと御所の区割りが謎だった。
そもそもそれが上田市であることすら語られていなかった。

確かに、科野大宮社の石碑には、そう書かれているが、真実の裏付けに確たるものが欠けていたのだ。
筆者はついにその手がかりを見つけたのである。 
科野大宮社と科野国分寺の一致の現場を捉えたのだ。
 科野大宮社の左に広大な条理田がある。
 開田は江戸時代になってからと伝えられている。
 その条理が、旧信濃国分寺の発掘により明確になった場所・方位ともに、綺麗に一致するのである。
 また、その条理は科野大宮社を西の発端にして、刻まれている。

 科野大宮社と科野国分寺の一致点が見えなくて悩んでいたが、ついに発見したのである。
 
 真田氏が上田の町を整えたのは1583年のこと、科野大宮社の西側に街を作ったことが、現在の街路の形状からも読み取れる。
それ故に東側には、それ以前に図のように条理が存在していたことを意味している。
なぜなら、条理田が整えられたのは、伊勢山の裏の神川からの疎水が引かれた時で、記録によれば1679年江戸時代前期のことという。
 
 信濃国分寺は741年に建てられたというが、その前すでに尼寺の位置には異なった建物があったことが、近年吉村八州男氏の研究により明らかにされている。
 僧寺に対して尼寺の礎石は、九州王朝の尺を用いて築かれていて、それ以前の建立であるのだ。

そして九三九年に平将門によって焼かれ、その後は北側の現在の場所に移されたのだ。
参道は、本来なら僧寺に正対するべきところ、旧寺の尼寺側から伸びている。
将門以前から、参道に相当する道路形があったことを意味している。

 旧信濃国分寺の存在が明らかになったのは、1970年頃のことである。
江戸時代には明らかになっていなかったはずであり、開田の条理を切る時に信濃国分寺の礎石の向きに合わせることは不可能である。

 科野大宮から東に伸びている道路は二本、一本は北国街道で、千曲川に沿っている。
もう一つが祢津街道であるが、何故か一直線に東に向かっている道路が残っていて、神川の崖を渡る位置と一致するので、この道路は開削以前から直線路が有ったことを示している。

そしてその大路は、小泉大日堂から科野大宮社を結ぶ線上に、ピタリと一致しているのである。
北に向かう道路も直線に伸びていて、この北の道を結界であるかのごとく東西で街区が明確に変わっている。
西は上田城下が開かれた時に区切りされたものだが、その発展は東にも向かったはずだが、東は恐ろしいほど綺麗な条理なのだ。

街道が開いたのは戦国時代、科野大宮の東にまだ条理の田んぼはなく、直線である道理がない。

また、この地には大きな河岸段丘があり、上と下の村も違い生活の関連がなく、疎水は共同で引いたことが認められるが、条理の区画線を一致させる理由が見当たらない。

答えはただ一つ、この地が田んぼになる前から、科野大宮から信濃国分寺の右にある旧寺(尼寺)に併せた条理の大規模な道路工事が成されていて、道形が残っていたと考える。

ここに、科野の副都の大路が蘇ったのだ。


金曜日, 10月 20, 2017

イノベーション innovation

 シュンペーターが若い時に提案した資本主義の終焉を前にした時に、必要なテクニックとして発表しました。
 既存の勢力では、もう対処できなくなった時に、「夢よもう一度」の処方箋です。

in nova ation からなるラテン語の造語です。

in 入る。
nova 新しくする。
ation 計画・実行・結果の進行形

 ということで、
in があるということは、前提条件として、入れる母体と入る異体が必要になります。

 異体が母体に入り、母体は異体を受け入れますが、主語は異体の側なのです。

 つまり、異体が母体に入り、異体を主として、母体が新しい試みに挑戦するのです。

 実はここにもシュンペータの凄さがあります。

in 入るのです。
push 無理やり入れるのではありません。
異なる母体に「全体で入る」ことを意味していて、母体も「受け入れる」のです。
その為には、すり合わせが必要となり、みんなで一致点を探す、遠大な作業を要求されます。

 これが、ation
nova 新しき試みを、計画して、異体を受け入れて、すり合わせして、両者が納得できる事象を発見し、実行に移す。

 その成果を得て、見直し、変更して、再び売り出して、成果を確かめ、
見直して、変更して、売り出す。

 この連続した、異体との結合を「新結合」と翻訳しました。

 新しいことをするための結合ではなく、「新しき結合の方法」なのです。

 ですから、自社独自に innovation できることはあり得ないのです。

 おおよそ、『受け入れがたい異分子を受け入れる』このことからスタートすることが必要なのでした。

 これまで、どの企業もその経験と度胸と実績が無いため、大企業の力は現状にとどまり、新しい時代を担う勢力になっていませんでした。

 イノベーションを指導してきた学者にも問題がありそうですが、全体主義・異端を排除する、日本企業の抱える本質的な弱さなのかもしれません。

土曜日, 10月 07, 2017

宮下農園のブログに

宮下農園ショップのサイト
http://miyanou.jp/
宮下農園のブログのサイト
http://kuiin2.blogspot.jp/

を充実スべく、しばらくそちらに掛かりきりになると思います。
ブログでは、主に 無農薬の酒米に関する記事と、酒造に関する知識などを中心に、
お酒やおコメやお味噌をお求めの方の、疑問にお答えして、知識を豊富にできるような、ことを進めていこうと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

水曜日, 10月 04, 2017

消費税は廃止できる

消費税は福祉目的税ではない。
そのように囁かれたときも有るが、今や使いみちについては、縛りが取れていた。
簡単に上げ下げできる、単なる集金システムに成り下がっている。
上げる時は、福祉を言って国民を騙し。
国庫に入れば、一般財源として、グロスで管理。
而も、輸出戻し税として、大半を大企業に差し上げている。

消費税が上がるから、日本の景気は悪くなる。
仕方ないので、大企業は輸出に努める。
総生産量は上がり、表向きの数字は良くなるが、こと消費税だけのバランスは、
消費は下向き、輸出戻し税は上がり、
残金が少なくなって、福祉を削る好材料になり、「あげなけりゃ」
国民と野党勢力、経済の仕組みわからんから、おとなしくしてる。

消費税 ゼロ 廃止ししてみる。
国民はその時の政府信頼してないから、大きな買い物にも走る。
一気に景気が回復する。
でもまだ、この時点では税収には何も影響はない。
消費税も所得税も課税時期は、確定申告後だから。
政府的には、何のリスクもないのです。
その間に、所得税の租税特別措置法を廃止して、
所得税法・法人税法を、昭和の消費税廃止前状態に戻す。
所得税も法人税も前年の利益に課税する方式なので、
企業の経営を圧迫しません。
企業は国民消費の拡大で、嫌というほど潤っているので、
支払いには何のためらいもなくなります。

法人税が嫌な企業は、外国に出ていけばよいだけですが、
国内が好景気に湧いてるのに、出て行く先など何処にもありません。
国内の販売の対価として課税する限り、でていくものは居ないでしょう。
すべてが嘘だったことが、国民にも解り、
「 消費税廃止 」した政権は、安泰を得ることになります。

いま掲げるべき政策は、
原爆ゼロでも戦争ゼロでも原発ゼロでも忖度ゼロでもない。
消費税ゼロだ。
景気が良くなって、生活が安定すれば
自然に、そっちの方に目が行く。
不景気だから、戦争を叫ぶのよ。
不景気だから、フクシマにも目が行かないのよ。
景気が良くなっても、誰も考えなければ、アメリカのようになるだけ。
日本は日本人が創ってる。
良くも悪くも、特別な人種国なので、せめて良い方に変えようよ。

消費税 廃止 すれば、みんなが勝てる。

日曜日, 10月 01, 2017

シャトーの条件

 ワインブドーの栽培がブームのようです。
最初のブームは、戦後20年頃、私が14歳の時。
 我が家でも一番大きな畑を潰して、石灰を大量に入れて棚を張って、ブドウ苗を植えました。
収穫できる頃にはブームが去って、借金と棚だけが残りました。
 2番めが、これは知らなかったのですが、今から20年位前らしい。
この時は棚は天井タイプではなく縦型のようらしく、随所に残骸が見える。
 いつの時代にも、成功者とそうでない者が居る。
そして、いままた若者相手に、栽培の魔の手が伸びている。

 ワイン用ブドウは、シャトーが作るもので、農家が作るものではないと思います。
シャトーワインの80%がブドウ作り、ブドウさえ良いものができれば、ワインなんて放っといても湧いてくる。
 シャトーの条件
1.まず土。本には40%の石灰岩質と書いてあるので、オヤジたちは石灰を買って入れた。
 そうじゃあ無いよ。40%石灰のある地質とは、昔海だったところの貝が大量に生息していた海岸線。それが隆起して、できれば珪藻積層岩でも欲しい所。
2. 西南側に山のある東向き斜面。東に開けて池または大河か水田地帯があること。
まず、朝日が一番に当たること。夏から秋にかけて、夕日が早く沈み日陰になること。
3. 朝、山から風が吹き下ろす環境を調べ、風が抜けるように畝を並べる。
4. 雨があまり降らないこと、梅雨時に高湿度にならない高冷地であること。
夏、爽やかな風が抜けること。
5. 日本の場合は、畝幅や植え付けピッチを、フランスの1.5から2倍にとって、剪定をこまめにして、蒸れないように工夫する。
6. 病原菌の防除は、野草を選んで薬を作り散布することで、無農薬化を図る。

 石灰岩が必要なわけは、病原菌が石灰により少なくなるから病気になりにくい畑と、海だった痕跡の酵素が必要とするミネラルが豊富であること。
 ボルドー液は硫酸銅と生石灰水の混合剤、硫酸銅の弱酸性がやはり病原菌を殺菌するため。これを使うと、硫酸銅は流れるが石灰が残り、醸造に不適なため硫酸で中和する必要が出てしまい、ビンテージが効かなくなり安物のワインにしか醸せない。
 ホントは、もっと重要なことあるけど、必要ないのでこの辺でやめますが、もし、若い人でワインを作りたいと思ったら、フランスに勉強に行ってからにするべき、日本でシャトーをしたかったら、勉強して調べてフランス以外の地で、修行しないと難しいと思います。

 ここまで読んでお解りのように、醸造用のブドウ作りは、勉強家でないと務まりません。
 同じように、酒米作りにも難しいものを感じています。
ワイン造りはブドウ作りが80%、日本酒作りはコメつくりが50%ここが相違点だが、コメつくり知ってる杜氏数%。酒造り知ってる農家は?ここが分かれ目なのです。