連環馬という戦法は、数頭の馬を丸太を横にして繋ぎ、それを以って一気に押し寄せるのです。
数頭の馬が顔を盾で防いで押してこられれば、あたかも壁が押してくる感じ、知った後には防護柵を巡らせたのだが、それを知らなければ人間の盾しか用意してない。
たとえ農耕馬でゆっくりの歩みでも、人が弓矢で太刀打ちできず、ただ踏みつけられてしまうだけ、兎に角逃げるしか無かったのでしょう。
白村江の敗戦時の、韓国における陸戦では、そのようにして逃げ帰ってきたのでしょう。中大兄皇子も大海人皇子も共にそれを目の当たりにしたはずです。
帰国して、如何様にして騎馬隊を整えるか?そこで活躍したのが百済の人々だったのでしょう。
当初、阿蘇嶽周辺に展開していたと考えています。後に帰化して阿蘇氏を名乗った方々は、当初は神の名のようなあだ名で表現していたのではなかったのかと。
阿蘇氏の古墳は、阿蘇山の北に展開していて、南側には残っていません。
塩田平は阿蘇山系の南側と似ている指摘が有って、阿蘇山の南と思われる古安曽に安曽神社があるところからも、それが頷けます。
韓国名秦氏「建御名方命」を阿蘇嶽南方の兄貴と呼んでいたとして、彼を州羽に追い詰めて、須波を名乗らせた。この時点で日本名が得られる。
彼の軍団の特徴は、騎馬兵。
この時は何時かというと664年直後、阿蘇山を経由して科野に入ったのでしょう。
科野とはどういう情景を謂うのか?諸説ありますが、ワタシは山を焼き払い、草を馬が食べて、柔らかい草に覆われた高原のような放牧地を、しなやかな野として科野と呼んだのではないだろうか。
そうでなくても、最初の科野は大きい國ではなく、ひとつの牧場かひとつの条理田であったはず。
その前の長野県には、縄文人は居ても弥生人は、居なかったようにで、山高く険しい処であったようです。
では、豪族は居なかったのかというとそうではなく、間違いなく岡谷から上田にかけての高原地帯を、同一族かどうかは別として後の名「守矢氏」が、矢じりを守って2千年から2万年の間、支配していたことは歴史の事実でもあります。
この守矢氏と須波氏あるいは建御名方神が戦って和解している記録があります。
何故戦い、何故和睦したのか?
守矢氏は霧ヶ峰の矢じりの産地を外敵から守るため、西は岡谷で商いをしていたはず、東は長門の沢・和田の沢は近すぎるので、黒曜石の鉱床から尾根伝いに和田に降り、余里峠を越えて、武石の郷に至れます。
その邑は「餘部の郷」上田市武石には「鳥矢」や「鳥羽」「矢武商い」と読める鳥屋・鳥羽・藪合・余里などの地名が残っています。そもそも武石も矢じりに他ならず、ワタシは子供の頃武石公園の裏の畑で矢じりをたくさん拾いました。
今思えば、彼の地は加工場でも在ったのではないだろうか。
美ヶ原・霧ヶ峰・高ボッチ高原は何故、草原なのだろうか?
守矢氏が外的を発見して侵入を阻む手為に焼き払った跡と思います。
そこを阿蘇嶽南方の百済騎馬兵が通過したのです。びっくりしたと思いますが、簡単に通り抜けていったことでしょう。
やがて、上田の地で育てた騎馬兵が大挙して、都に向けて通るのです。しかも大門峠だの八島湿原を通るのですから、穏やかではなりません。
戦になるが、和解もやむなし。守矢氏は武器商人、戦うのではなく新しき武器を取り入れ一族の繁栄を願うのは、当然の成り行きでしょう。
どのようにしたのか?
時代の前後をはしょって、高原にて馬の高所トレーニングをしたことが、科野の駒のブランド化に成功したポイントで、以後1000年の長きに渡り、義仲・真田の活躍の源が守矢氏の貢献・諏訪信仰につながるのです。
馬を高原に上げるのに、律令時代わざわざ、武石村の我が家の裏道を通り、築地原・村主・大布施を経て、武石峠側より美ヶ原ルートを作りました。
たかが馬を上げるのではなく、馬一頭につき数名の騎手・手綱・農民・歩兵などが、登っていったので、大布施が必要だったと思われます。
汗血馬の産地は蒙古高原、この時既に百済人には高地トレーニング効果が認められていたのでしょう。