無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

土曜日, 5月 13, 2017

創酒米・蔵酒百年

 百年保つ酒の為の酒米を創る。
それには、酒のことを知らないままでは、できません。
 杜氏のみなさまに酒造好適米のコメ作りについて尋ねました。
これまでお会いした杜氏さんで、どんなコメが良いのか教えてくれたのは、丸尾さんだけでした。
 その他の方々は、好適米のことは知っていても、作り方まではご存知ありませんでした。

 仕方ないので、自分で酒造り学びました。
たどり着いた教科書は、上原浩先生の純米酒です。
 もう一つ、百年保つ酒はシャトーのビンテージワイン、酒を百年保たせる技は知られていて、幸いにこの知識は若い時に身につけていました。
 この二つを合わせることで、どういう酒米を創ればいいか?の狙いを定めました。

一つ自信を持って、言えることがあります。
 百年保つワインを作る技術を身に着けても、それ用のぶどうを創る技術と心がなければ不可能なのです。
 農業は自然相手ですので、技術だけでは心が折れてしまいますので、鋼のような強い心と蔦のような柔らかい心が求められるのです。
 日本酒も酒米作りもまた同じ、まず高い志を掲げることだ思いました。

  みなさまにお願いします。 パートナーを探しています。
 多分、日本全国探しても、百年保つ酒のコメつくりしているヒトは、私の息子だけだと思いますので、そういう杜氏さんがおられましたら、私らに声をかけて下さい。
 また、百年保つ酒に興味のある杜氏さんや蔵主がおられましたら、是非ご紹介をお願い致します。

蔵酒百年創酒米

「百年保存できる日本酒を造ってもらおうと、それに耐え得る酒米を創ろう。」
と決心して、始まった今年の稲作。

 百年耐えるにはどうしたら良いか?農家にできることは何か?
せめて田んぼを百年・千年前に戻すことだろう。
その時になかった化学物質は、総て排除する心意気で向かいました。

でも、道具や環境は、酒に影響のない部分において、また、後に続く若い人ができる環境も整える意味で、設備は最先端を心がけることにしました。

 種からも化学物質を取り除き、土は小諸市御牧ヶ原の焼成無肥料覆土・浅間システムソイルを買って、福島県棚倉町産出の1500万年前の海底の珪藻の地層土・棚倉ミネラルと混ぜて、播種しました。

 植物由来の液肥を使い、潅水に液肥を混ぜて育てています。
ここまでは昨年と同じ、昨年と違うのは心意気だけですが、現在、錯塩と全く違って良好な生育を示しています。

 「想い」が、重要ではないかというのを、肌で感じています。


金曜日, 5月 05, 2017

千葉三郎武石胤盛


 「手塚光盛の兄、岡谷の諏訪盛澄は義仲と一緒に戦ったが、流鏑馬の名手として、鎌倉幕府の御家人として許される。」記述があるが、多分(仮説)騎馬兵の供給(馬と騎手はセット)基地が、美ヶ原を本拠地とする守矢氏と須波氏だった。
 幕府としても、騎馬兵の供給は一朝一夕にならず、痛し痒しのところがあり、やむなく許したのでしょう。
 そこで、西側の武器庫である武石に、千葉家の三郎胤盛を地頭として送り込み、楔を打ったのでしょう。
 一代限りの赴任になったことと、全国に諏訪神社が祀られていることから、推測するに、
 騎馬兵の供給が鎌倉幕府と合意ができ、全国に向けて科野の騎馬隊が売られていったのでしょう。
 流鏑馬などの技術を磨いて、各地に赴いた軍人は、任地にて指南役や名将になり、また、その地において若者を諏訪(塩田の須波の郷)に送って鍛錬していたことでしょう。
 諏訪神社を媒として、武将の育成ができた藩には、戦の神として諏訪社が祀られているのだと思います。




水曜日, 5月 03, 2017

律令時代の御用馬のルート

 律令時代の御用牧の騎馬の搬送ルートは、現在残っている地名から推測するのに以下のようだったと思われます。(通説に一部変更を加えました。)
 佐久(柵)望月の御用牧場→御馬寄(御代田)→小牧(御牧?)→諏訪形(国司須波氏のお屋形)→須川の尾山(御山の牧?)→御嶽堂→腰越(海部の郷)深山→鳥屋(鳥羽・鳥矢)(餘部の郷)→武石→築地原→大布施(巣栗(村主?))→稜線の道→武石峠→美ヶ原牧場にて高所トレーニング→駒越(里山辺)→厩所(松本)→木曽街道→奈良の都
 東山道は武石峠より北の保福寺峠ルートであり、人々の通行する公道を避けて、裏街道を利用していた理由とは、その存在自体が軍事機密だったからだと考えています。

 第一次騎馬隊が「科野國州羽之海」を目指した理由は、そこが千曲川唯一の下流に広がる洪積平への堰の取水口として、最適な場所だったからです。
 当時、貨幣は必要なく、お米が兵隊の給与としての最高の位置づけで、仕事が貰えて食い扶持があり、将来に希望が持てる職業として、騎馬兵の育成があります。
 天武天皇13年の在位の中で、騎馬兵の育成(士官学校)を挙げていますが、実際にどうであったのかを、妻である持統天皇は伏せています。突然の夫の死亡で騎馬兵の軍事力の詳細は軍事機密にする必要が生じたのだと思います。

 天武天皇が672年の壬申の乱で政権を取得したのを助けたのは、科野國(の須波)の兵であることが記録されています。
 685年天武13年、科野國須波の郷(常田の荘)に遷都を計画。
 691年持統天皇5年水害の記録ありし時、科野國須波の神(上田市諏訪形)、水内の神(豊長野市野町)招聘の記録が日本書紀(720年編纂)に、大河を制した豪族である経歴が必要。諏訪湖にその豪族も不在なら河川もないが、豊野、諏訪形共に実績あり。
712年古事記編纂時に、科野國州羽之海に建御名方神(阿蘇嶽南方に居た騎馬民族の頭目)を追い詰める記述ありて、百済人を州羽氏(須波氏)と命名して仲間に入れた形跡あるが、日本書紀では触れていない。
 この理由として、当初は渡来人の扱いだったが、須波氏の貢献大にて軍政が成功して敵方ではなく、重要な味方になった事件が必要。
 その事件とは、科野の日本最大の武器商人である守矢氏と建御名方神が戦い和解している。即ち、矢じりの武器商→弓矢の武器商に、高原での騎馬兵の育成事業が加わり、秦國の汗血馬の産地が蒙古高原である事実も知って居て、高所トレーニングを積んだ科野の騎馬兵という、イノベーションが起きた。
 
 時代は流れて938年平将門の乱にて、須波の兵他田(おさだ)ノ真樹、参戦して勝利する。(他田の姓は、中国語で田の人という意味、倭人は戦わないコメつくり人とう意味で、稲作を伝えたのは倭人で田の専門職だったが、戦も覚えたよう)
 1180年木曽義仲、諏訪形より10kmほど南の御岳堂の原にて挙兵するも、進軍まで1年駐留する。(駒王として、塩田平付近、手塚・生島足島神社・諏訪形の皇神宮などに足跡多し、幼年時代から騎馬兵の訓練基地であった形跡大)
 1184年義仲敗死するも、巴御前と手塚別当逃散、須川に250名の兵士が戻ってきた伝えあり)現字名で「奥別当」なる不自然な小字に隠れ里の形跡ありて、井戸跡、宮跡ありて、科野大宮社の神殿の正面に存する不思議な位置にある。
 1186年、常田の荘の領主、八条院璋子内親王、諏訪形の山上に大鳥居を建てた記述が、常田の科野大宮社の石碑にあり。生島足島神社の夏至の日昇線と科野大宮社の正面線との交点の山の上にそれがあると、奥別当を守るように存在する。
 鳥羽天皇の娘の璋子内親王は、猶子(戸籍上の息子)の以仁王に平氏討伐令を与えて挙兵させた人物で、義仲挙兵に領地常田の荘に関わっていて、岡谷の荘も八条院領。
 巴と別当に子ができた祝が大鳥居だと辻褄が合い、璋子50歳の時、75歳で没しているのですが、その子が長じて八条院領岡谷に赴き諏訪氏を名乗れば、璋子内親王の夢も、義仲の夢も、巴の思いも、660年頃から居たはずの須波氏が、鎌倉時代に突然諏訪氏として諏訪神社に流鏑馬の名手として現れても、全ての辻褄が合うのです。

 報酬としてのお米の生産は、天皇家一族の直属の他田氏が勤めれば、作ったコメを代金として、須波氏に払えば、毎年騎馬兵を都に送ることが出来、古代軍国資本主義が貼り立つ。 
 科野國が騎馬兵の練兵場であり、馬の育成・武器の製造(金刺氏)・騎馬兵の鍛錬(手塚氏)・武将としての教育と、人馬の高所トレーニングを積む仕組みなどが、山家氏である真田氏に伝わり、美ヶ原・霧ヶ峰・八ヶ岳を中心に伊那・佐久と信濃の高山の特性を活かした軍事教練場は、軍国主義が終わる徳川時代初期まで、真田赤備えなどと恐れられた理由が、「騎馬軍団システムの販売」にあったとしたら、全てがつながっていくのです。

火曜日, 5月 02, 2017

はじめて自分のカメラを買う

土地家屋調査士会の支部長の任期が終了した褒美に、はじめて自分用のカメラを買いました。
望遠付きの一眼レフ、Canon EOS kiss X5 望遠は28から200です。

神社の奥にある紋だのキワモノを撮りたいがため。山や月も収めてみたいと思っています。
早速、蓼科山の雪形が、ワシのごとくに見えたので、パチリ。

いい道具が手に入りました。

主を外した歴史の真実

 歴史の中で、「誰が何した。」の誰?を外して観察すると、記録だけが残っているので、真実に一歩近づけます。
 イチバンの真実は、今の地形で、これはごまかしようにありません。

 条理の田んぼと等高線に沿って開拓された田んぼがあると、条理のほうが先に出来ています。
 どちらも上流河川から堰を引いてくるところから始めなければ、出来ないことはお分かりだと思います。
 条理の田んぼの特徴は、必ずや堰の取り入れは岩盤の河床から引いていることです。
つまり、この地域でイチバン安定して取水できる所が、地域最初の取水口になり、最初に開拓された田んぼであることが解ります。
 最初の開拓ですので、組織に拠る入植でないと不可能で、所謂、開拓専門の軍が進駐してきてやらないと出来ません。
 
 上田の地では、御所・中之条・下之条がそれに当たり、その堰の頭首工は小牧の六ヶ村堰と同じ位置、昔も今も変わりません。
 同じく、古里側にも条理は残っていますが、道路の区画は出来ていますが、田んぼは条理になっていないのと、神川からの取水が古代には難しい場所を選んでいるので、時代が遡ってのそれではないかと思います。
 塩川にも綺麗な条理田がありました。この取水も藤原田からの河川の岩盤の場所から引いています。昔は沢山の水が流れていたのでしょうか。
 あまり大きい集落は必要なく、できる範囲での開拓で充分なのです。その後、居着いた農民が自力だの集落あげて開いた田んぼが、等高線に沿った棚田になっていったのです。

 そして、条理の田んぼが完成すると、その子孫らに拠って更に上流に、洪積平と岩盤の取水口を探して行ったのです。



 武石の市ノ瀬にある取水口は、市ノ瀬が武石イチバン美しい渓谷になっていて、長瀞とはいかないまでも、岩の谷間が開ける所にあります。
 岩盤からの取水の特徴は、通常の取水口はしばらく川に沿って土手などで標高を稼ぐのですが、川から一気に平野部に導いていることです。
 それに、悩んだ形跡はありません。しかも千年以上変化なかったことも頷けます。
 この下に下武石の条理の田んぼが有ったのでしょう。今は何処も構造改善されていて、そのことが見えないのが残念です。

月曜日, 5月 01, 2017

ワイン用ブドウ栽培の場合

ワインの話になったので、少しお遊び。
 また、ワインブームなのですが、イチバン最初のブームは、ワタシが13歳の頃なので、昭和40年・1965年頃だと思います。我が家でも畑にワイヤーを張って、キャンベルを作りました。
 成長して収穫できる頃には、ブームは去っていて一円にもなりませんでしたね。
 その後の農家の事情は知る由もないのですが、消費者的には25歳頃に好んでワインを頂きまして、毎土曜にはサドヤのシャトーブリヤンだの貴腐ワインを開けていましたね。当時は本給より残業手当のほうがびっくりするほど多い高額所得者だったのです。
 確か昭和50年・1975年頃になりますね。1988年ものは当たり年でしたね。1992年も良かったような気がします。
 その次に来たのが天井のネットではなく、スタンド式の支柱のぶどう畑が作られていましたね。
 当地にも畑が作られていますが、シャトーは別として農家で残った方はワタシの知る限り1畑だけですね。
 10年くらい前に大手が進出して、上田近辺で畑が作られましたね。
 ワタシは、完全無添加ワインでないと飲めませんので、今は国産で飲めるワインは見当たらず、豊かな友人が居てビンテージシャトーのみ飲めるからと教えてくれましたが、数万円のでないと難しいのだそうな。
 今ワタシは貧しいので、およそ高嶺の花です。

 それにしても、栽培のポイントは知っています。
 糖度を上げるのではなく、ミネラルを多く含むブドウを作るのがキモだそうで、土壌は昔海だった所。朝日が最初にバッチリ当たる東向きの斜面、風通しがよく、夏の夕方4時には日が落ちて、雨の降らない傾斜地が、シャトー向けの畑なのだそうナ。

 理由はさておき、そんな土地いくつか知っていますが、お金がないので栽培と醸造はもう夢の彼方になっていましました。
 若い方で夢お持ちの方は、そんなことを教えてくれるシャトーを、世界で探してお勉強してからされると、成功できるのではないかなと思います。

光合成の式で遊ぶ(3)

光合成の式で遊ぶ(その5)
光合成の式
6CO2+12H2O→青い光と温度→C6H12O6+6H2O+6O2
 それを支援する葉緑素のマグネシウム酸化の式
2Mg+CO2→青い光化学変化のエネルギー→2MgO+C
 酵素の可逆変化の仕業、
青の化学変化のエネルギーと赤の温度エネルギーとが上の式を右に導く。
可逆的に闇になって、温度が高い時に上下の式を左に導く。
 夜温が低いと5-ALAのH2水素の働きにより、MgO 酸化マグネシウムが還元して、Mgマグネシウムに戻って、翌朝に備える大自然の素晴らしさ。
昼夜の寒暖の差が大きいと美味しい野菜ができる。美味しい果物がなる。と謂われているけど、本当だろうか?
 確かに、より甘い果実になることが予測される。
甘いといえば、サトウキビと甜菜は沖縄と北海道だ。
 沖縄で、昼40℃夜20℃として、夜温10℃以上なら昼間はに蓄えられたブドウ糖は、夜戻ってしまうが、それにも増して昼の効能のほうが大きいからだろう。
 北海道はどうか?昼30℃として、夜10℃その温度差20℃と考えると北海道では、夜のロスが少ないので甘くなるのだろう。
 中間点ではどうか?昼間35℃夜20℃だったら、若干糖度が足りなくなるが、夜15℃だったら同じことだろう。
多分、水分の夥多が分かれ目になるのだろう。
もう一点、甘けやりゃあ良いのか?そうとも言い切れませんね。
 ワインの場合、糖度はそのままアルコールになりますので、旨さはミネラル分が寄与することになり、甘けりゃあ良いワインができるわけでは無いことが解ります。
 美味しいブルーベリージャムを作っていて、理解したのですが、甘さは砂糖でなんとかなりますが、うまい味はミネラル分の夥多です。
 地中のミネラルを如何に実に運ぶか?昼夜の寒暖の差ではなく、夏、世間が日光による水分の蒸発で、蒸していてる間に日陰を創り、夕露が下草に降りるような気象条件の畑を探すことで、直接的ではにけれど、式の右辺の考察より導き出します。
 イネなら、夜の水温を下げる工夫など、違いの解る百姓になる登龍門が、この式を理解することなのです。

守矢氏は外せない

 連環馬という戦法は、数頭の馬を丸太を横にして繋ぎ、それを以って一気に押し寄せるのです。
 数頭の馬が顔を盾で防いで押してこられれば、あたかも壁が押してくる感じ、知った後には防護柵を巡らせたのだが、それを知らなければ人間の盾しか用意してない。

 たとえ農耕馬でゆっくりの歩みでも、人が弓矢で太刀打ちできず、ただ踏みつけられてしまうだけ、兎に角逃げるしか無かったのでしょう。
 白村江の敗戦時の、韓国における陸戦では、そのようにして逃げ帰ってきたのでしょう。中大兄皇子も大海人皇子も共にそれを目の当たりにしたはずです。

 帰国して、如何様にして騎馬隊を整えるか?そこで活躍したのが百済の人々だったのでしょう。
 当初、阿蘇嶽周辺に展開していたと考えています。後に帰化して阿蘇氏を名乗った方々は、当初は神の名のようなあだ名で表現していたのではなかったのかと。

 阿蘇氏の古墳は、阿蘇山の北に展開していて、南側には残っていません。
塩田平は阿蘇山系の南側と似ている指摘が有って、阿蘇山の南と思われる古安曽に安曽神社があるところからも、それが頷けます。

 韓国名秦氏「建御名方命」を阿蘇嶽南方の兄貴と呼んでいたとして、彼を州羽に追い詰めて、須波を名乗らせた。この時点で日本名が得られる。
 彼の軍団の特徴は、騎馬兵。
 
 この時は何時かというと664年直後、阿蘇山を経由して科野に入ったのでしょう。
 
 科野とはどういう情景を謂うのか?諸説ありますが、ワタシは山を焼き払い、草を馬が食べて、柔らかい草に覆われた高原のような放牧地を、しなやかな野として科野と呼んだのではないだろうか。
 そうでなくても、最初の科野は大きい國ではなく、ひとつの牧場かひとつの条理田であったはず。
 その前の長野県には、縄文人は居ても弥生人は、居なかったようにで、山高く険しい処であったようです。
 では、豪族は居なかったのかというとそうではなく、間違いなく岡谷から上田にかけての高原地帯を、同一族かどうかは別として後の名「守矢氏」が、矢じりを守って2千年から2万年の間、支配していたことは歴史の事実でもあります。

 この守矢氏と須波氏あるいは建御名方神が戦って和解している記録があります。
何故戦い、何故和睦したのか?
 守矢氏は霧ヶ峰の矢じりの産地を外敵から守るため、西は岡谷で商いをしていたはず、東は長門の沢・和田の沢は近すぎるので、黒曜石の鉱床から尾根伝いに和田に降り、余里峠を越えて、武石の郷に至れます。
 その邑は「餘部の郷」上田市武石には「鳥矢」や「鳥羽」「矢武商い」と読める鳥屋・鳥羽・藪合・余里などの地名が残っています。そもそも武石も矢じりに他ならず、ワタシは子供の頃武石公園の裏の畑で矢じりをたくさん拾いました。
 今思えば、彼の地は加工場でも在ったのではないだろうか。

 美ヶ原・霧ヶ峰・高ボッチ高原は何故、草原なのだろうか?
 守矢氏が外的を発見して侵入を阻む手為に焼き払った跡と思います。
そこを阿蘇嶽南方の百済騎馬兵が通過したのです。びっくりしたと思いますが、簡単に通り抜けていったことでしょう。
 やがて、上田の地で育てた騎馬兵が大挙して、都に向けて通るのです。しかも大門峠だの八島湿原を通るのですから、穏やかではなりません。
 
 戦になるが、和解もやむなし。守矢氏は武器商人、戦うのではなく新しき武器を取り入れ一族の繁栄を願うのは、当然の成り行きでしょう。
 どのようにしたのか?
 時代の前後をはしょって、高原にて馬の高所トレーニングをしたことが、科野の駒のブランド化に成功したポイントで、以後1000年の長きに渡り、義仲・真田の活躍の源が守矢氏の貢献・諏訪信仰につながるのです。

 馬を高原に上げるのに、律令時代わざわざ、武石村の我が家の裏道を通り、築地原・村主・大布施を経て、武石峠側より美ヶ原ルートを作りました。

 たかが馬を上げるのではなく、馬一頭につき数名の騎手・手綱・農民・歩兵などが、登っていったので、大布施が必要だったと思われます。

 汗血馬の産地は蒙古高原、この時既に百済人には高地トレーニング効果が認められていたのでしょう。

歴史の裏側を貫いている事象を掴む(1)

 歴史は面々とつながっているので、事象だけをつまみ出して判断するのではなく、「とある事象に拠ってそうなった」と考え、事象を挿入していくことで、より真実に近づけることができると思います。
 また、古代人が記録した書に対し、現代でも合致させることができるのは地形である。 
 現在の地形や方角と記録が合致していれば、その記録は真実に近く、それを支援する事象を探し出して当てはめることにより、真実を探し当てることができると思います。

 ほぼ同時期につくられてた古事記に「科野之国州羽海」記載があって、日本書記にない事柄を考えます。
古事記の特異性は、それまでの氏名が「建御名方命」のように、あだ名で書いていたところに唐突に「州羽と名乗れ」と諏訪氏の名が出てきて、それが日本書紀からは消えていることです。

 事件の発端は天武天皇(大海人皇子と同一人物なので以後天武天皇と書きます)が、663年の白村江の戦いにおいて、日本軍の敗戦を見ていたこと。
海戦が有名だが、生き残っているので陸側に居たと思います。そこで彼が見たものは、三国志などで出て来る連環馬などの馬に拠る圧倒的な強さだったはずです。
 帰国して騎馬隊の育成に努めたことは、やがて673年に即位して騎馬隊の育成学校の制度を整えたことから伺えますが、歴史の中でそのことが触れられていないのです。
 どこで馬を増やして、同時にどのようにして騎兵を養育し騎兵隊を得たのかが不明です。
 ワタシだけが知らないのかもしれませんがその後、望月の駒、伊那の駒、木曽の駒などが有名になり、鎌倉時代に前後して日本屈指の流鏑馬の名手が信濃人として名を馳せています。

 それらをどのように紐解いて組み上げていくかに拠って、より真実が見えてくると思います。