難しい理屈は、少しおやすみして、稲作の起源についての考察を
日本の稲作の起源については、先生の2冊の本に拠って、呉越の王が北方民族の侵略から難を逃れて、日本に渡ってきたとする解釈によることが、最も優れていると思っています。
但し、この2冊は、渡来を証明しようとしていますが、具体的にどのようにして稲作が為されたのかの考察が為されていません。
そこで、ワタシが農民として田んぼ作業に関わり、気づいたことや「こうすればできる。」というような観点から、稲作の起源に迫ってみようと思います。
呉越同舟の越が、長江流域にあり、漢の騎馬民族の襲撃に会い、東の海に逃れた、逃げる必要があった者は、近衛兵と王一族だけです。
傭兵は再び使えるというか、漢民族も米を略奪に来たので、農民と間接統治者すなわち地方の役人は、残す必要があったので、襲わなかったでしょう。
そんな訳で、逃げてきたのは近衛兵。近衛兵は男だけと本では説いています。
中国の海岸沿いに北上すれば、朝鮮半島は北回りの漢民族の手下なので、やがて日本にたどり着く。
最初の上陸地は、長崎湾、博多を通り門司から瀬戸内海に入った王と近衛兵は、其の静かな浜と豊かな海に感動したことでしょう。
漁労稲作の民と分類される新民族の名は、「倭」イネをつくる戦いをしない女々しい人が、其の特徴をよく表しています。
瀬戸内の海から陸地を眺めてみると、何処の浜からも開拓に適した平野が見えます。
兵隊が上陸して、田んぼを開くことを屯田と言い、山と平野の境において大川の流れをせき止め、横方向に水平に水路を穿ち、其の海側に石垣を築き、条理の田んぼを作ること、これが屯田。
屯とは、たむろすなわち田んぼをたくさん作ること、北海道開拓の測量を見て気付いた、軍隊はまっすぐ測量する、条里制の田んぼのルーツがここに始まった。
文字の遊び
浜とは、上陸した時兵隊が住む基地を作る場所は「浜」兵のいる水辺なのである。
田んぼを作るに際して、大木はどうしたのか?のこぎりや斧など、そう多くの道具が豊かではない時、原始林を切り開く最高の手だてが放火。田んぼの形を作って火をかければ木は枯れてしまう。
水を張って、数十年もすれば跡形もなくなったことでしょう。枯れ木は肥やしになっても、日陰はイネを妨害するほどのものではなかったと思います。
で、其の文字が 畑 水を切って田んぼが乾いた農地を、白い田んぼで 畠
条理が出来上がってそこに流れを呼びこむと、其の形は 津 津の文字の中心の線は、縦に流れる分水の用水路。
屯田兵になってみると、この水を最初に流して、満々と水が溜まってくるさまを見ることができた時の感動は、いかばかりであったことでしょう。 そのように考え、津の文字を書いてみましょう。
縦の1の線が、あまりに感動的ではありませんか。
で、最初の兵が駐屯して、今度は農民となり、縄文の山の民の娘を娶り子を設けます。
駐屯兵は、田んぼの所有者が誰だか知っていますので、その方に年貢を納めることにして、イネを揃えて提出します。それが租 禾偏は稲のこと、作りはそろえるの意味、米で払う年貢のことです。
で、その隊長の名前を、近衛兵だった名残と、この邑すなわち囲の門の中の集落の長として、兵衛門はいかが、代々、王直属の兵隊であった証の意気が感じられます。
駐屯兵が、稲作に一段落して子が育った時、その子らは隣の平野または上流に新天地を求め開墾の役に付きます。その名を 庸 津をつくる役職。 津から水を除いた字は、田んぼを作るの意、その字が似合います。
その食料を調達して届けるのは親の役目、それが調。律令時代に移行するというわけです。
この仕組みを作ったのが天皇家。
農民は元近衛兵であり、米は貨幣なので農民は大蔵省技官、傭兵は土木建設の国家資本を作る役を担った、国家公務員だったというわけです。
出来た田んぼは、越の管理技術で、田んぼ一枚一枚に番号をつけて管理しようとすると、その1枚の番号地番木管を作ります。それは竹のほうが作りやすかったし、江戸時代の検地台帳には、竹の木管が差してありました。
田んぼ一枚のことを、ひとふでと呼びます。筆 田んぼの番号を竹札に書いたことに由来します。
津々浦々とは、浜から見た、漁労稲作の民の様子、海に広がる船や筏の様が浦、陸に広がる水をたたえた田んぼが広がるさまを津、それらが連なるさまを津々浦々。
秋に稔りを迎えて、まだ田んぼに水がある日本を、秋津島。水穂の国。
倭は和に、大和になるのも、全ては禾の賜物。
この仕組は古代資本主義国家かと考えたが、計画経済のようなので、理想的な古代社会主義国家の建立なのであった。